ネット社会は脳と身体を分断する
2006年を振り返って思うことは、確実にインターネットがこの日本社会を牛耳りつつあるということだ。かつて、趣味の一分野であったマイコンマニアたちが、現代ではネット社会の英雄として君臨する。一方、就職すらパソコンを打てない人間は排除される。会社のホームページにすらたどり着けない人間は、人間として認められない。
さらに、ネット社会は消費主義経済を変貌させる。たとえばテレビCMを見てもそうだ。かつてのテレビCMは、どうやってテレビの前にいる視聴者を玄関から外に送り出して、店の前に立たせるかに心を尽くした。外に出て店員と会話を交わすことで、同時に街の商店街を活性化させ、その地域社会のコミュニティを担うことができた。しかし、ネット社会になって価格サイトでより安い商品を捜すことが簡単にできるようになった。地域の商店にとってそれは大きな障害となった。町内の店とではなく、全国の商店、ひいては全世界の商店を相手に戦わなくてはならないからだ。
今度は検索CMというものが登場した。インターネットのホームページが店舗代わりである。ホームページから販売すれば、店員は要らなくなり、店舗すら必要ない。こうなると、視聴者は、外に出なくなった。すべて宅配業者にお任せすれば商品を届けてくれるからだ。
店員が必要ないから、その町にいても仕事がない。仕事がないから人々は都市に集まる。こうして地域の商店街は疲弊していった。
外に出て、店員と言葉を交わす。近所の人と顔なじみになる。消費経済ではこのシステムが地域コミュニティとして必要条件だった。しかし、ネット社会がこの必要条件を破壊した。
もちろんネットにもコミュニティサイトがある。だが、それはバーチャルなコミュニティである。顔も知らない、性別も知らない、ハンドルネームのみのコミュニティだ。これは結局小説を読んでその主人公の顔かたちを想像することに似ている。いわば、脳の中だけのコミュニティである。地域コミュニティでは相手の顔も知り、性格も知る。知り合いになれば家族も紹介されるかもしれない。こういう、想像じゃないリアルなコミュニティは、手を触れることのできる身体のコミュニティだ。
人間には、この脳のコミュニティと身体のコミュニティの両方が必要である。ネット社会ではこの脳のコミュニティが増大し、身体のコミュニティが縮小した状態である。脳の中がそのまま現実だと思っているところが、ちょうど映画「マトリックス」に似ている。脳の中から見ていると、身体の世界を理解することができない。リアル世界を知らなかったネオのように。