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素人だから言えることもある

「テレビがなくては生きてはいけない人」のために

 前項「2011年問題の後に2012年問題もある地デジのトラブル」で、はからずも、コメント欄で「普通人の我々はアナログ波終了とともにDVDモニターとして細々とTVを利用していく」と答えた、kendjiさんと、「普通人はテレビが無いと生活できない」というkirifueさんのコメントがあった。ぼくは、「2011年テレビ滅亡論」を書いたとき、日本人はフィンランド人のようにスパッとテレビを捨てられるだろうかと思い、「日本人はテレビを捨てられるか」を書いたのだが、実は、それについてはきっかけがあった。

Thir氏の分析から

 それは、「2011年テレビ滅亡論」を分析した、「Thirのはてな日記」の「テレビ要らない」が含意する複数の要素について」を読んだとき、なるほどと思ったからだ。Thir氏は、テレビを次の4つにわけている。
1.ハコとしてのテレビ

「ハコとしてのテレビ」とは、文字通り、画面とチューナーによって構成される機材としてのテレビです。

2.インフラとしてのテレビ

「インフラとしてのテレビ」とは、地上波やCS・BSといった、テレビ局から電波を使用してアンテナを経由しチューナーまで送り届ける、その仕組みです。

3.コンテンツとしてのテレビ

「コンテンツとしてのテレビ」とは、テレビ番組のことです。また、私は「コンテンツとしてのテレビ」をここでさらに2つの枠に分けて考えたいと想っております。それは、「即時性を持つコンテンツ」と「持続性を持つコンテンツ」です。前者はニュース番組やスポーツ中継のような鮮度が求められるコンテンツ、後者はバラエティ番組やドラマ・ニュース・アニメのように、鮮度が無く、また持続的に再放送可能である存在を指します。

4.大枠としてのテレビ産業

最後に存在しているのが、「テレビ産業」です。これは、テレビ局や総務省、各種権利団体を含めた、一般人からすると謎に包まれた「ギョーカイ」です。中で何が行われているのか、その真実をしることはほとんど出来ません。

 そして、Thir氏の結論として、
繰り返しになりますが、上の記事でも見られたように、壊滅を予想されているのは「1.ハコとしてのテレビ」です。そしてそれは、「2〜4のテレビ」の変化が「1.ハコとしてのテレビ」を不必要とした、という形でまとめられています。もしかしたら、「1.ハコとしてのテレビ」が見向きもされなくなれば、広告の関係から「4.大枠としてのテレビ産業」は死に、「2.インフラとしてのテレビ」も全く利用価値が無くなる……という連鎖も想定されているかもしれません。

一方はてなブックマークでは、「テレビ全体」を否定するような書き込みが目立っていることは特筆すべきでしょう。はたして、「テレビ全体」は否定できるものなのか、私はそこに強い疑問を感じます。

 この結論にあるのは、テレビの中のコンテンツとインフラは分けて考えるべきだという意見である。

アメリカと日本のテレビの立場

 ぼくは、「コピーワンス問題からほの見える日米のテレビと映画の立場」でこんなことを書いている。
 IT proのコラム「Joostに見るグローバルTVの可能性と限界(後編):日本のテレビ局はなぜインターネット事業に消極的なのか」によると

 日米のテレビ放送産業の伝統的な違いが,Joostに対するスタンスの違いとして現れると尾関氏は見ている。米国では,1970年に連邦通信委員会FCC)が定めたFin-syn rules(financial interest and syndication rules)によって,長らく主要テレビ局自身による番組制作が禁じられてきた

つまりABC,CBS,NBCという当時の3大ネットワーク局は,他の会社が製作したテレビ番組を放送しなければならなかったのだ。Fin-syn rulesは1980年代に緩和され,1995年に廃止された。しかしその名残から,いまだにテレビ局は単なる放送ネットワークに過ぎない。つまり番組の著作権を持たないのである。

(中略)

 つまり、アメリカでは番組を制作した映画会社が著作権を持っているのに対し、日本のテレビ局は自分たちが持っている。したがって、インターネットに対しての立場が当然変わってくる。

 (アメリカの)映画会社は、自分達のコンテンツを視聴者に届けるためには、テレビ放送、映画館、ビデオ、インターネットなど他のメディアを通さなければならない。

逆に言えば、映画会社は同じコンテンツでもそれだけの選択肢があるということである。アメリカのテレビ局としても同じだ。電波と制作が分離しているために、他のメディアを通す必要があるのである。日本では、電波と制作が一箇所に集中しているために、他のメディアを通す必要が無い。だから、インターネットを通すことを嫌うのである。自分の収益をそがれるからだ。

ただ、政府から放送免許を与えられるために、とりあえず尻尾を振っているだけである。この問題が政府主導ですんなりいくとは思えない理由がそこにある。ともかく、テレビ局の問題を解決するには電波と制作を分離すること、それに尽きると思うのだが。

 アメリカでは、テレビ局が番組の著作権を持たなかったために、映画会社などのコンテンツメーカーが世界市場に向けて、コンテンツ作りにしのぎを削った。ところが、日本では、放送免許に守られて、国内で勝てばそれでよかった。そして、今回、地デジ問題で、新たな危機を迎えている。

「テレビがなくては生きてはいけない人」とテレビ局の解体

DVDモニターとして細々とTVを利用していく」人なら、「ハコとしてのテレビ」だけでよいだろう。また、彼らにはインターネットやケータイのような様々なメディアがある。

 しかし、「テレビがなくては生きてはいけない人」はどうするのだろう。極端な話、たとえば、老人ホームで日長一日テレビを見ている人を思えばよい。彼らにとって、必要なのは「コンテンツとしてのテレビ」である。彼らには、アンテナの調整もBS、CSのインフラも関係ない。だが、結局、そのコンテンツを出すためには「ハコとしてのテレビ」「.インフラとしてのテレビ」「大枠としてのテレビ産業」が裏に控えているのだ

 地デジ問題はこのような人たちにもろにかかっていく。老人ホームでは、その地デジの費用を負担しなければならないのである。今まで、何にもせずにボケッとテレビを見ている老人たちからテレビを取り上げることができるだろうか。かつて、テレビほど簡単なメディアはなかった。地デジは機能も増え、きれいになったが、ますます難しいメディになりつつある。
 「2011年問題の後に2012年問題もある地デジのトラブル」について書かれたagehaメモの「新東京タワー問題。」には、

(1)結構な数の視聴者が、それを見越してケーブル、衛星、光ファイバ、IP再送信を選択するだろう。そして地上波無料放送の伝播力は減殺する。なぜならば、そこで地デジ番組が見れたとしても、ゆとり層が高付加価値Chに流れるのは世界的傾向だからだ。

(2)他方、日本の地デジは低所得層にもムリヤリ負担を強いるアンバランスな形になっている。たとえ5千円チューナを作っても4:3のブラウン管TVに映したら貧乏臭い。この残念感を味わうのは生活保護世帯だけではない。鬼木センセイの試算では2011夏時点で残存する現役アナログTVは5600万台の見込みだと言う。

 2011停波を強行すれば、この5600万台ぶんの残念感が蓄積する。「停波特需」による各種商品/部品の供給不足と値上がりがこの不満に拍車をかける。たとえ5600万台ぶんの買い替え需要が発生したとしても、そんな生産能力はない。需要急落を目前に設備投資に走る莫迦はいない。日本市場の制圧とブランドの確立を狙う外国でも無い限り。

 今まで、簡単に見られていたテレビが難しくなっていく。最後の楽しみだったのに、それをとりあげるのは誰だ? やがて、あきらめつつ、それに従う層が必ずいる。だが、そこに希望はあるか。その何割かは、テレビを捨てて行くかもしれない。ぼくは、「テレビ局解体論」で「あるある大事典」騒動のとき、次のような提言をしている。
(1) テレビ局と新聞社の分離

 メディア・リテラシーの関係上、新聞社がテレビの番組制作体制批判ができなかったのは大変奇妙だった。しかも新聞社がテレビ局とつながることで、隠れた金がテレビ局から新聞社に流れている疑惑がどうしてもぬぐえない。この際、分離することでテレビ局のチェック機関として新聞社に任せることができる。

(2) 報道と娯楽の分離

 情報番組が報道か娯楽かわからないので、娯楽専門の作家や制作会社が担当することになったのである。それぞれの制作会社が報道・娯楽に得意な分野を持たせることでより事実調査に強い報道専門の制作会社が担当することができる。

(3) テレビ局と制作会社の分離

 テレビ局は番組制作にタッチしない。制作会社に著作権を任せ、テレビ局は選りすぐれた番組を提示した制作会社の番組を流す電波管理のみの業務を行使する。したがって、テレビ局の仕事はスタジオや機材貸しと電波管理のみである。スポンサーは直接制作会社が交渉し、テレビ局はロイヤリティーのみ徴収する。つまり、今までのテレビ局のみ金が集中する事態は避けられ、番組制作者はピンハネを恐れずに優れた番組作りに力を入れることができる。そうなれば、海外に売れるコンテンツも増えていくだろう。

 もちろん抵抗はあるだろう。果たして、その方向に行くかどうかはわからない。だが、海外からのコンテンツを迎え撃つには、これしかないと思うのである。あまりにも、テレビ番組以外で食べている利権の巣窟となっているテレビ局を復活させるためには。
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