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素人だから言えることもある

感動を消費するな、感動から学べ(夢は見るものではなく叶えるもの・3)

「感動をありがとう」の違和感

サッカーのセルジオ越後氏が書いた「感動をありがとう」ではなく、サッカーを語れ!に岡田憲治氏のツィートが掲載されていた。
なでしこジャパンのW杯優勝と、それに伴う報道の激化について、「言葉が足りないとサルになる」の著者で専修大学教授・岡田憲治さんがこのようにツイートしている。

なでしこの何が素晴らしかったのか、サッカーがどれだけ素晴らしいスポーツなのか、そこに焦点を絞った報道をしてくれ。選手の家族を連れて来てコメントさせるのは止めてくれ。「日本人の物語」はやめよう。サッカーの話をしよう。こんな事は滅多に無いのだから。変えて行こう。サッカーを語れ!

『感動をありがとう』はやめよう。そう思っても、違う言葉で言ってみよう。いつもの、例の、あの、辟易するようなお仕着せの言葉をしまいこもう。新しい言葉で彼女達の偉業を讃えよう。彼女達のサッカーの何が素晴らしかったのかを、あくまでもサッカーの話の中で語り尽くそう

なでしこの特別な偉業を、いつものやり口で「消費」しようとしているメディアの皆さん。特別な偉業には特別な言葉と特別な付き合い方をお願いします。彼女達のやった事は「感動をありがとう」や「勇気もらった」などというありきたりな言葉では表現できない事です。新しい言葉を!」(「感動をありがとう」ではなく、サッカーを語れ!)

なるほどと思った。おそらくこの話題も今週1週間で終わり、年末の今年の重大ニュースのスポーツ部門の一つに取り上げられるだけなのだなと思わざるを得ない。マスメディアも視聴者も、映画やドラマのように、今週の感動の名場面のひとつとして消費されるだけなのだ。これでは、私たち日本人は、何も学んでいないということになる。私たちは、「なでしこジャパンの優勝」という夢を見ただけで、その夢を叶えることのすごさを何も学んでいない。

僕は、[お題]日本人に民主主義は合わないのか~情報共有から始めようでこう書いている。

その場その場でマスコミの流した情報を話題にするが、それは次の瞬間、消えている。なぜ、蓄積したデータを過去のデータと比較しないのか。脊髄反射的に、揚げ足を取ったり、攻撃するためにレッテル張りすることではなく、もっと自分の知識として活用しようとしないのか。

今回の震災で分かったことは、誰も真実を知らないということだった。いわゆる専門家たちは、マスコミという「揚げ足取り」消費型システムにより、タレントと同じように消費されていく。

そうではなく、間違ったら修正すればよい。失敗したら学べばよい。それが、蓄積型のインターネットシステムにふさわしい。


まず、最初に、お互いに情報を持ち寄り、優れた知識なら引用して、情報の共有を図ることだ。どこかの専門家に頼ることではない。それは、マスコミと同じく消費しているにすぎないのだ。たとえ間違った専門家でも、学ぶべきところはあるはずだ。まず、一人一人がこの方面は強いという情報を収集し、共有していくことで、受け身の民主主義でなく、本当の民主主義の土台が築かれる、と僕は思う。

なでしこジャパン」というキーワードの元に、ファイルに溜め込んだら終わりというのではあまりにもったいない。なぜ、そこから自分なりに学ぼうとしないのか。

検索が記憶を阻害するというウソ

検索は、あくまでも道具である。それを百科事典であるかのように誤解している人が多い。検索と百科事典は違う。

検索は、ストレートにその言葉は調べられるが、周辺の知識や関連する知識にはなかなか知ることができない。百科事典は、その検索する言葉の周辺に関連知識が並んでおり、容易に目につく。

これはインターネットの本屋とリアルの本屋の違いとも似ている。インターネットは、注文すれば本を郵送してくれるが、その関連にどんな本があるかはレコメンドを見ない限りはわからない。本屋に行けば、関連書籍が周辺にあり、思い描いていたテーマがタイトルで見つけた本になくても、周辺の本を立ち読みで選ぶことが可能だ。インターネットでは、この周辺知識を収集するのが結構面倒なところがある。しかし、あまり本を読まない人はこの欠点に目が向かない。こういうタイプが、何でもかんでもGoogleに頼ればいいから覚える必要はないという意見を持つ。

WIRED JAPANに「Google」は人の記憶能力を低下させるかという記事に

検索エンジンとネットのおかげで、ほとんどの事実は記憶する必要がなくなった。キーをいくつか押せば、ほぼ無制限に情報にアクセスできるからだ。しかしこのことは同時に、われわれの記憶等の能力に影響を与えている可能性がある。

7月14日付けの『Science』誌」に掲載された論文によると、新しく学んだ事実をコンピューターに記録した場合、その事実を思い出す確率が下がるという。つまり、オンラインでいつでも便利に入手できると思えば、それについて学んで記憶する意欲が下がるのだ。

いわゆる「積ん読」というやつである。本を買ったら、読んだつもりになる。百科事典が身近にあっても、それを読まなければ何の役にも立たない。Googleで検索した先で頭を使い、また別な検索を行うことが重要なのに、そこまでいかず、一回の検索で満足してしまう。

「感動」も同じである。テレビやマスコミの流した「感動」を自分の頭の中で咀嚼しない限り、決して自分のものにならない。自分の言葉ではない「感動をありがとう」というワンフレーズで済ましてしまってはもったいない。コメントをしたいなら、RTや「感動をありがとう」でなく、自分で書いた生の言葉が欲しい。自分の頭を使わないなら「積ん読」と同じである。
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