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「スター誕生」裏読みタレント騒動史

 このタイトルは、一見すると「スター誕生」のタレントが騒動を起こしたように読めるが、今回は、彼らは登場しない。あくまでも裏読みである。その内容については、次第に明らかにしていく。

 前項「阿久悠と山口百恵」で「スター誕生」に触れたついでに、この番組の設立事情に触れたい。当時、日本テレビに「紅白歌のベストテン」という番組があった。司会は堺正章、月曜8時の放送であった。毎週月曜日といえば、10時にフジテレビで「夜のヒットスタジオ」司会は前田武彦と芳村真理。「紅白歌のベストテン」の9時の放送終了後、わずか一時間の間に人気歌手たちは、渋谷公会堂からフジテレビの新宿河田町へ通っていた。しかし、「ヒットスタジオ」を重視するために、「ベストテン」はキャンセルされたそうだ。そして1973年に事件が起きた。その名は「渡辺プロ事件」。Wikipedia にはこう書かれている。

1973年、番組史を揺るがす一つの事件が起きた。この番組の同時間帯に渡辺プロダクションがNETテレビ(現・テレビ朝日)とタッグを組み、新規に「スター・オン・ステージあなたならOK」と言う裏番組を水面下で計画し、それをぶつけてきた。これを知った日テレの井原高忠は渡辺プロと話し合いをしたが、渡辺プロ側から『それじゃ、お宅の歌番組の時間帯をずらせば良いじゃないか』と言われた上に、渡辺プロは日テレサイドに『放送時間をずらさないのであれば今後、ベストテンにうちのタレントは出演しない』と通告してくる。すなわち渡辺プロがクーデターを起こして来た。苦しい立場の日テレ側は「ベストテン」の時間を移動するか、渡辺プロに頭を下げるか、この挑戦を受けて立つしかなかった。しかし井原はこれに屈することなどなく、真っ向からこの挑戦を受けた。
 井原高忠とは、ベストテンのプロデューサーのことである。当時の渡辺プロは飛ぶ鳥を落とす勢い、「ナベブロ帝国」とも言われ、渡辺プロの意向を無視しては番組を作れなかった。しかし、なぜ日本テレビのベストテンの裏に番組をぶつけてきたのか。それは、「スター誕生」の存在があったからである。「本来、スターを見つけるのは芸能プロダクションの役割、テレビ局がそのような番組を作ったのは、役割を越えていませんか。」というわけだ。わざわざ「あなたならOK」なんていうスター発掘番組を作ったのもその意向が見えている。この事件をきっかけに日本テレビ側も対抗意識を燃やし、単なるタレント・オーディション番組からナベブロがいなくてもタレントを自前で養成できることを証明したのである。

 このように、旧メディアは新メディアが対抗してくることに目くじらを立てる。「五社協定」がそうであった。映画が隆盛の時代、新興テレビに対抗するために、大手映画会社5社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)が1953年9月10日こんな協定を結んだ。

・各社専属の監督、俳優の引き抜きを禁止する

・監督、俳優の貸し出しの特例も、この際廃止する

本来は、日活に対する対策だったものが、テレビ局対策に変わったという。タレントや俳優はテレビには貸しませんというわけである。一生懸命育てた俳優をテレビにとられて成るものかという思いがそこに満ちている。そのことは、俳優の活躍の場を自ら縛っていることに気がつかないのである。

 さらに、さかのぼれば、映画が日本で流行りはじめた明治から大正時代、「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助が年間千本の映画で活躍している。元歌舞伎俳優である。当時の歌舞伎界は映画をどう見ていただろうか。「シネマがやってきた—日本映画事始め」(都筑政昭著/小学館) には、

 歌舞伎界は世襲制のため、名門に生まれなければ、実力があっても下積みで終わる。芝居の好きな人間に残された道は、座頭に出世して一座を組み、一生旅回りで終わるか、家紋や世襲と関係のない新派や新劇の世界に走るかのどちらかであった。

(中略)

当時、歌舞伎役者を(旅回りの一座なので)「河原乞食」と呼んで卑しめることがあったが、活動写真に出ることは、それよりさらに堕落したように思われていた。

 この関係は現在、起きているネットとテレビの関係にも応用できる。旧メディアであるテレビが新メディアであるネットに対して、否定的なイメージを作り、自らのコンテンツであるタレントや番組に縛りをかけるとすれば、結局はどちらもが共倒れになるかもしれない。結局、共存の道を探らなければならないのである。選ぶほうから見れば、タレントには代わりはいるが、選ばれる本人にとってはひょっとして唯一のチャンスかもしれないのであるから。
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