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素人だから言えることもある

人はなぜ、ダークサイドに惹かれてしまうのか・2

ジェダイと執着

人はなぜ、ダークサイドに惹かれてしまうのか」で、ジョージ・ルーカス
アナキンが抱えている問題の根源は、執着を捨てられないことにある。(ジョージ・ルーカススター・ウォーズエピソードⅢシスの復讐」プログラムより)
という言葉を引用したが、Wikipediaの「執着」にこうある。
執着(しゅうじゃく、abhiniveza (sanskrit))とは、仏教において、事物に固執し、囚われる事。主に悪い意味で用いられ、修行の障害になる心の働きと考えられている。


執著とも書く事がある。仏教術語というより、一般的な用語であり、現代語の執着(attachment)によく似た意味で、煩悩の術語としてのraaga(愛)あるいはlobha(貪)に近い。

サンスクリット原語は、abhinivezaの他に、sakti、aasakti(没頭する事)、 parigraha(摂取、所有)など良い意味でも使われる語が同時に執着の意味を持ち、 graaha(にぎる、理解)、adhyavasaaya(決知、判断)など認識にも関わる語が執着の意味で用いられる。

キリスト教では愛を説くが、上記の見解から、仏教では愛ではなく慈悲を唱える。

 つまり、「執着」は、宗教者のような聖職者によく使われるということである。たとえば、僧侶が頭を丸め(つまり剃髪)することは、俗世間から離れることを意味する。俗世間は、何かと囚われることが多いからだ。スター・ウォーズのジェダイの歴史を見ると、
新時代を開拓するために考案され、哲学的研究グループとして創設されたジェダイは、銀河系の平和と正義の威厳ある守護者として尊敬されるようになった。フォースとその輝く象徴たるライトセイバーの神秘的な使用者として、彼らの力は多くの銀河市民に畏敬の念を抱かれていたのである。冷静かつ尊敬に値する振る舞いによって、ジェダイは対立や紛争の時代に平和をもたらす理想的な存在だった。

(中略)

ジェダイとなるには、極めて重い責務と洞察力が要求される。ジェダイの人生はまさに自己犠牲そのものなのだ。破戒を避けるため、フォースの適性を示す者は生まれたとき(あるいはその直後)に連れ去られ、コルサントに置かれた本拠地であるジェダイ聖堂、またはより小規模なジェダイ・エンクレーブで訓練を受けることになる。そして、ジェダイは訓練の開始時から、合理的思考、忍耐、慈善などの概念が込められた、厳格なジェダイ規範を遵守することが期待される。憎しみ、怒り、恐怖などの感情はダークサイドへと連なる破壊的なものだと考えられており、ジェダイの行動において厳格に禁止されていた。

(中略)

銀河共和国のジェダイは、強い執着心をダークサイドの感情へと通じるものだと考えており、それを持つことを禁じていた。同様に、結婚することも許されていなかったアナキン・スカイウォーカーの存在こそは、ジェダイがこうした慎重な姿勢をとったことの証であり、彼は秘密の妻パドメ・アミダラを失うことへの恐怖によって最終的に闇へと転落したのだった。しかし、彼は息子ルーク・スカイウォーカーとの絆によって、後に光を取り戻している。他にも極わずかに結婚を許された事例が記録として存在している。(ジェダイ-スター・ウォーズの鉄人!)

 まさに、スター・ウォーズのジェダイの修行こそ宗教者の修行に通じる部分があり、執着を捨てて修行に励むことが奨励される。
聖職者(せいしょくしゃ)とは、宗教上重要な地位に就いている人間のことである。また比喩的には、教職など、一部の清廉高潔とされる職業に従事している人間を指す場合もある。(Wikipedia-聖職者)
 なぜ、清廉高潔でなければならないか。それは、自分の利益のみに執着すると、その判断を受ける人間に対してはなはだしく不公平になるからである。それはその人間と癒着を生み、一方で正しい批判を受け入れなくなる。もちろん、聖職者は宗教者に限らない。そのような職業、たとえば、教師、裁判官、医師、政治家などがそれに当たると思われる。

 メディアの発達で、これらの聖職者の悪徳(執着)があからさまにされ、彼らの地位が地に落ちかかっている。もちろん、清廉高潔な人も数多くいるが、メディアが悪い部分のみを報道するため、聖職者のイメージがなくなってしまっている。そうなると、わざわざ辛くしんどい修行をしてまで聖職者になる人間がますます減少する。執着を捨てる「聖職者」よりも、執着を貫くことこそ素晴らしいという「俗物」が流行する原因がそこにある。

ダークサイドが好むのは孤立

 メディアが不安を煽り、聖職者に対する不信を募らせる。確かに、メディアの役割として、警鐘の為に告発はやむをえないが、一面で同じニュースが何度も流れると、その業種では腐敗が日常であるかのように誤解させる。権力を持つものの腐敗は、人々を疑心暗鬼にさせる。メディアが複数あれば、お互いの誤報を監視できるはずなのだが、それはほとんど稼動しない。それはなぜか。メディア全体への不信を恐れるからである。メディアは、他人に対する不安を煽りながら、一方でメディアの信頼性を確保しようとする。そうなると、人々の孤立感は高まり、メディア依存も高まる。ジェダイのような切磋琢磨して訓練を通してお互いの信頼を高めあうシステムがあれば、孤立感はなくなるが、我々「俗物」の世界では、執着することしか孤立を忘れることができないのだ。

 最近、よく起きている「誰でもよかった」事件。そこで象徴的なことは、いずれもが孤独だったことである。
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