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素人だから言えることもある

知る権利の自己矛盾


官僚会見廃止と記者クラブ開放


 平野官房長官による「事務次官による会見廃止」問題が、マス・メディアに大きく波紋を呼んでいる。本日(9/21)の毎日新聞には、



 「私ども政権は、公務員の記者会見を原則として禁止する。事務次官等の定例記者会見は行わない」。平野博文官房長官は初閣議後の16日夜に開いた記者会見でそう表明した。
 鳩山政権は、この日の閣僚懇談会で申し合わせた「政・官の在り方」の中で、「府省の見解を表明する記者会見は、大臣等の『政』が行い、事務次官等の定例記者会見は行わない」と明記した。平野氏は、理由について「新政権の目指す政治主導という考え方に立っている」と説明し、事務次官にとどまらず「公務員の会見禁止」にまで言及した
 新政権の会見禁止方針に対して、記者からは「(会見廃止は)報道統制と受け取られかねない」と懸念する質問が出たが、平野氏は「政治主導での責任ある会見であり、言論統制という考え方には立っていない。前向きにご理解いただきたい」と一蹴(いっしゅう)した。(次官定例会見廃止:揺らぐ「知る権利」 記者側反発「撤回を」)


 確かに、かつての自民党政権であれば、官僚主導であるので、むしろ官僚から聞いたほうが、より正確な記事が書けたかもしれない。だが、結果として、大臣会見の形骸化を産むことになってしまった。「政治主導」という立場である民主党政権が、それを継承することは考えられない。つまり、官僚の会見を見逃してしまえば、本当に政治家と官僚がどちらが主導で動いているかが見え透いてしまう結果になる。その点で都合が良いというわけだ。しかし、現実に大臣会見でそこまでフォローできるのであろうか。大臣の仕事はあまりにも膨大である。しかも、テレビのワイドショーで、連日のように顔を出している議員もいる。大臣の記者会見が官僚の記者会見ほど、事細かに話すことは到底考えられないのだ。早晩、音を上げるのは大臣のほうではないのだろうか。


 記者から見れば、ニュースソースは多いほど、事実に即した報道ができる。だから、官僚会見は残して欲しいという立場だ。だが、一方で「記者クラブ」による報道独占をしているのは、記者のほうではないか。「マス・メディアが報じない「記者クラブ」騒動」に見るごとく、記者クラブに属さないフリー・ジャーナリストの問題については、一切口をつぐんでいる。一方で、会見廃止に文句をつけながら、仲間が増えるのは頑として許さない。「知る権利」を論じる前に、自分たちがどういう立場にいるかを思い出して欲しい。


 僕は、「あるある大事典」騒動のとき、「テレビは視聴者を信じない」というエントリーでこう書いた。



 関西テレビの千草社長が、「あるある大事典」について総務省に報告書を持って行った行動に失望したことがある。おそらくメディアに弱みを握られまいとしたのだろう。顔面蒼白のままその内容については一切語らなかった。僕は「この社長もか」と思ったのだ。
 僕は、ほんの2年前、「メディアの自殺」と題して書いたことがある。例のホリエモンニッポン放送を買収しようとした事件のときだ。フジテレビがテレビの「公共性」を説いたことがあった。だが彼らに「公共性」をかたる資格があったのだろうか。本当に「公共性」があったのなら視聴者から怒りの声が出てくるはずだ。「あんたが言うなよ」という気分だった。
 さらに「メディアの行方」で

 メディアの自殺と題したのはわけがある。一つは、その放送局が「公共」的であるのかどうかを判断するのはあくまでも視聴者であり、自ら主張すべきではないことと、せっかくのチャンスであるこのときに、視聴者を巻き込んだ番組を作ることができるのに、何もしていないことだ。これでは視聴者はなんとつまらない放送局だと思うのは当たり前である。もちろん、それどころではないというだろうが、外野から見ればどうしても守勢に回されるメディアのふがいなさに目が行ってしまうのだ。

 関西テレビの千草社長の目はすでに政府のほうを向いていた。決して視聴者に向き合うことはなかった。(テレビは視聴者を信じない)


 この「公共性」を「知る権利」と言い換えれば、視聴者は読者である。読者は、新聞購読者ばかりではない。インターネットのニュースサイトを見る読者もいる。「記者クラブ」の問題を新聞紙上で隠したところで、インターネット上では丸見えである。


 ネット上では「記者クラブ開放を俺がつぶす」と平野官房長官が言ったという噂が流れているが、この官僚会見廃止と合わせてみると、ますます言論統制の方向に進んでいく可能性もないとはいえない。


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