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素人だから言えることもある

ネット時代の「学び」とは(「学び」について考える・2)

かつて老人を尊敬したのは

 頭が煮詰まって、何も考えられないことがある。たまたま、アルビン・トフラーの「富の未来」を読むと、常識に凝り固まった自分の頭をハンマーで殴られた気分になる。例えば、こんな箇所だ。
 その昔、社会がそれほど変化しなかったころ、老人が尊敬されていたのは、過去を知っていたからだといわれることが多いが、そうではない。未来を知っていたからである。未来は過去とほとんど変わらなかったのだ。

 いまでは変化が速いので、古い知識のうちかなりの部分は死知識になっており、若者が道を切り開いていく際に役立つとは考えにくい。そして若者は老人の知恵をそういうものとして扱っている。チキン・スープは風邪にきくといった昔からの言い伝えも、ときには役立つかもしれない。だが若者はそれに従っていない。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・上(P266)」講談社)

 そうなのだ。農業や工業などは、先輩の教えが役に立つ。それは、やっていることがあまり変わらなかったからだ。だから、集団で学ぶマス教育もそれなりに役に立っていた。

 しかし、現代では、あまりも学ぶ範囲が広く、たちまち内容が陳腐化してしまう。つまり、マス教育が本人の役に立っていない事を意味している。結局、「学ぶ」とは、本人がそれに興味を持つかにかかっており、強制されたところで、学ぼうとしないだろう。それは、「抜き書き・「たけしの新・教育白書」〜頂上対談より」で引用した、池上氏の勉強と学びの違いの言葉にも頷ける。

池上 でも、やっぱり、基本的に上から押し付けて、「これやりなさい」ってやりませんよね。それは、何かこうほっておいても、何かひとつ、あっ、これ面白いなと思うものをうまく見つけることができるとやるんですよ。

池上 「強いて勉める」でしょ。勉強は上から押し付けられてやらされるイメージがあります。学びというのは自分から自主的にやろう。(「学び」について考える)

 もちろん、基礎的な学問は、集団教育に向いている。インターネットの知識による「学び」は、自分から独自に学ぶことに適している。池上氏が、「風をつかまえた少年」を通して、語ったことにもつながる。この場合は、学校の図書館を通してだが、インターネットによる「学び」につながる。

 1977年にパソコン(当時はマイコン)が発売された初期、人々はどうやってパソコンの扱い方を身に着けたか。「富の未来」に、こう書かれている。まず店員に聞くが、店員もたいした知識を持っていない。

 そこで隣の人でも友だちでも同僚でも飲み屋で知り合った人でも、誰でもいいから教えてくれそうな人を必死に探すことになる。コンピューターの使い方を少しでもよく知っている人を探す。ようやく探し当てたグルは、一週間ほど早くパソコンを買った人だったりする。

 こうして、パソコンの使い方がつぎつぎに伝えられ、アメリカ社会全体に水がこぼれるように、はねるように、あふれるように広まっていった。

 いまなら流行りの言葉を使って、ピア・ツー・ピア(P2P)の学習と呼ぶ人もいるだろう。だが実際の動きは、ナップスターでの音楽ファイル交換より複雑であった。グルと学習者はP2Pの場合とは違って対等ではない。グルは学習者より知識を持っているからグルなのだ。対等ではなく、知識に差があるからこそ、グルと学習者の関係ができる。これ自体も面白いが、もっと面白いのはやがて立場が逆転しうることだ。後から学んだ者がグルになり、以前のグルが学習者になって、体験や情報を交換することが少なくない。

(中略)

 このパソコン学習の過程は、誰も管理していない。誰も指導していない。誰も組織していない。ほとんど誰も報酬を得ないまま、巨大な学習運動が起こり、教育者も経済専門家もほとんど気づかない間にアメリカ金銭経済を変え、企業組織を根本から変え、言葉から生活スタイルまで、ありとあらゆることに影響を与えていった。企業が多数のユーザーを教育するようになったのは、かなり後のことだ。グルという生産消費者は、パソコン革命の隠れた英雄であった。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・上(P364-365)」講談社)

 このグルと学習者の関係が、現在でもますますインターネットのあらゆる分野のサイト上で展開されている点が面白い。いわば、ネット時代の「学び」の形がパソコン初期からすでにできていたのだ。「生産消費者(プロシューマー)」は、トフラーの造語で、僕は、「すべてのブロガーはプロシューマーである」でこう引用している。
 金銭経済で販売するための財やサービスが作り出されるとき、それを作る人は「生産者」と呼ばれ、その過程は「生産」と呼ばれる。だが、金銭が絡まない簿外の経済に関しては、「生産者」にあたる言葉はない。

 そこで1980年に刊行された『第三の波』で、筆者は「生産消費者」という言葉を作り、販売や交換のためではなく、自分で使うためか満足を得るために財やサービスを作り出す人をそう呼ぶことにした。個人または集団として、生産したものをそのまま消費するとき、「生産消費活動」を行っているのである。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・上(p284)」講談社)

 したがって、我々のような無給でブログ活動をすることも含まれると考えている。

ウィキリークス市川海老蔵事件の共通点は「権威の失墜」

 インターネットで、絶えず、色々な事を学んでいくと、今まで権威として尊敬していた人のアラが見えてくる。冒頭の「老人の尊敬」の後に次のような言葉が出てくる。
 では権威はどうだろうか。今後の世代も権威にひれ伏すのだろうか。そうだとすれば、どのような権威にひれ伏すのか。いまでは、知識経済が波及している地域ではどこでも、専門家の権威がかつてないほど挑戦を受けている。

 たとえば患者は医者に質問し、ときには医者の意見に逆らうようになった。ブログでプロのジャーナリストの権威に挑戦する人もいる。素人が専門家に挑みかかっており、これはテレビ番組のなかだけの話ではない。選挙で有名人がプロの政治家に挑戦し、勝つことが多くなった。素人でもパソコンを使って、映画を監督し、製作し、みずから出演することができる。

 同時に、主要な機関の破綻や失敗、企業のスキャンダルなどが次々に起こり、カトリック教会での性的虐待が問題になって、長年の権威に対する信認が失われ、それとともにこれらの権威を根拠として真実とされていた点への信認が失われた。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・上(P266)」講談社)

 ウィキリークスにより、暴露された外交文書により、政府の外交の権威が失われ、また、どんどん明らかになる酒乱の証言によって、歌舞伎界の御曹司である市川海老蔵氏の権威が失われたわけである。市川氏の場合、マスメディア主体であるが、かつてのような雲の上の存在と言うような歌舞伎界と観客の関係はすでに失われており、気軽にネットの「素人が専門家に挑みかかる」という風潮のため、権威失墜に後押ししていることがうかがわれる。

 かつてマスメディアが作っていた権威と読者の関係もネットになると身近になるのか、このように、絶えず、知識の変化が激しい世の中となり、権威の方も絶えず、研鑽していかない限り、たちまち足元をすくわれてしまう。また、ウィキリークスは、今回つぶされたとしても、リークをしたい人間はいくらでもいるわけで、第2第3のリークサイトが現れることになるだろう。
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