夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

精神論はやめよう

日本の未来を信じよう

ACジャパンという穴埋めCMのお詫びで触れていた
現在、ACジャパンでは、「東北地方太平洋沖地震」で被災された方々を応援する臨時キャンペーンCMを企画・制作中でございます。
とある通り、現在、新しいCMが流れている。SMAPやサッカーの長友選手が登場するCMだ。また「無駄をやめよう」なんてのもある。確かに言うことは立派だが、なんか気味が悪い。この気味の悪さはなんだろう。そういえば、「絶望と希望の2つの道」でAERAと週刊ポストをとりあげたが、希望の例でとりあげた週刊ポストの目次でも、ほとんどが「日本を信じよう」というテーマだった。

AERAバッシングにより、次の週のほとんどの週刊誌が、同じようなテーマだった。日本のマスコミが、不安をあおるか精神論でごまかすかの二者択一になっているのは、前項「伝えるメディアとつなぐメディア」で考えた通りである。なぜ、こんなことになるのだろうか。

池田信夫氏は、「失敗の本質」で、その特徴をこう書いている。

戦力の逐次投入:戦略目的が曖昧なため戦線の優先順位が決まらず、兵力を小出しにして全滅する――最初から海水を注入すれば炉内の圧力上昇を防げたかもしれないのに、1日遅れでベントを始め、水素爆発してから海水注入を始める。

短期決戦のスタンドプレーを好む指揮官:太平洋戦争は「敵を一撃でたたけば戦意喪失して降伏する」という主観的な見通しで開戦した――原発事故の起きた翌日に首相が発電所に乗り込んで、ベントが6時間遅れた。

補給を無視した人海戦術:太平洋戦争の「戦死者」300万人のほぼ半分が餓死だった――原発の作業員は1日2食の簡易食糧で水もろくに飲めず、夜は雑魚寝。

縦割りで属人的な組織:子飼いの部下ばかり集めて意思決定がタコツボ化し、「空気」が支配するため、総指揮官の暴走を止められない――「統合連絡本部」をつくるまで4日もかかり、各省ごとに対策本部が6つも乱立。東電にどなり込む首相を誰も止められない。

情報の軽視:第二次大戦で使われた日本軍の暗号は、ほとんど米軍に解読されていた――東電と保安院と官房長官がバラバラに記者会見して一貫性のない情報を流し、首相の演説にはまったく中身がない。

「大和魂」偏重でバランスを欠いた作戦インパールのように客観的に不可能な作戦を「勇敢」な将校が主張すると、上司が引っ張られて戦力を消耗する――使用ずみ核燃料にヘリコプターで放水する無駄な作戦を「何でもいいからやれ」と官邸が命令し、かえって国民を不安にする。(失敗の本質)

たしかに、今回の原発問題でも、連日、情報が流されていながらも、実は小出しに出されて、肝心なことは隠されている。「トレンチ」なんてことは、最近になって初めて明らかになったことだ。最初からオープンにすればよいのに、失敗してから明らかになった。

この官僚主義の縦割り主義が、現代の日本のマスコミがいまだに大本営発表となんら変わっていないことを明らかにした。

民衆は無知ではない

この発想の本質にどこか、日本国民をばかにしている風潮がある。

コラムニストの小田嶋隆氏は

さて、震災から約3週間を経過して、民放のテレビは、ほぼ通常編成に復帰した。スポットCMを流すスポンサー企業もぼちぼち登場しはじめている。これにともなって、先週まで異様な露出量で反復されていたACジャパンの一連のCMの送出頻度も、若干ではあるが減少してきている。ありがたい話だ。

そのACは、先週あたりから、既存の作品に加えて、節電や被災地復興への具体策を啓蒙する新規作成バージョンを提供している。

いずれも、模範的な正しいメッセージだ。

他人を思いやることも、あいさつをすることも、節電を心がけることもすべて、良いことであるには違いない。

なのに、相変わらず苦情が寄せられているらしい。

(中略)

国民(あるいは視聴者)が、このCMを見て感じるのは、 「なるほど。はじめて知ったぞ。デマにまどわされるのは良くないことだったんだな」

という素直な感想ではない。あたりまえだ。

デマにまどわされることが良くないだなんてことは、小学生でも理解している。その、小学生でも知っている自明の理を、彼等は、一日中何度も繰り返している。

と、当然、われわれは、

「要するにテレビを作ってる連中は、オレらを2たす2もわからない阿呆だと考えているわけだな」

というふうに感じる。

結局、一連のキャンペーンCMがわれわれに伝えているのは 「お国は国民を子供扱いにしている

というメッセージなのだ。(「ひとつになろう」より「てんでんこ」がいい)

また石原都知事の発言についても
『東京都の石原慎太郎知事は29日の記者会見で、東日本大震災に関連し、「桜が咲いたからといって、一杯飲んで歓談するような状況じゃない」と述べ、被災者に配慮して今春の花見は自粛すべきだとの考えを示した。

石原知事は「今ごろ、花見じゃない。同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感が出来てくる」と指摘。さらに「(太平洋)戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」とも語った。

都は既に、花見の名所となっている一部の都立公園について、節電などのため入園者に宴会自粛を呼び掛けている。』

(中略)

それでも、知事の自粛示唆そのものは、ぎりぎり、理解できる範囲にある。

都立公園の桜をライトアップする類の住民サービスを省略する件についても、節電の主旨からして、やむを得ざるところなのだろうと思う。

でも、「同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感が出来てくる」「戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」


というセリフは余計だったのではなかろうか。

この部分だけをとらえると、石原さんが、われら都民に戦争中のような「滅私」と「忍耐」と「連帯」を期待しているように聞こえてしまう。(「ひとつになろう」より「てんでんこ」がいい)

このような「精神論」の論調によって、かつての天皇陛下の下血問題の時のような「自粛の嵐」がマスコミに渦巻いている。しかし、指導者が「精神論」をぶつような社会を求めているとしたら、30年どころか、日本のマスコミは戦後60年間何も変わっていないことになる。
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