夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

いつでも見られる環境よりもいつでも学べる環境へ

見られる環境と学ぶ環境

ブロゴスでこんな記事を読んだ。
ユーザーが、いつでもほしい番組を見ることができると保証されることに慣れ、コンテンツを手元に所有する必要性がないと考えるようになると、環境は激変するだろう。ユーザーは自分の見たい番組を自分の見たいようにしか見なくなる。そうすると、まめにハードディスクレコーディングをする習慣自体が消滅する。(「ガラパゴスリモコン」の終焉〜ブルーレイディスクレコーダーはそもそもアメリカで売ってない - 新清士)
本当に、「ブルーレイディスクレコーダーはアメリカで売ってない」のかどうかは分からない。ただ、アメリカ国内の次世代DVDはもう終わってる?(ホームサーバの戦い・第4章) で考えたとおり、レコーダーが売れない事情は事実である。なにしろ、
全米には地上波、ケーブル、衛星含めて18000にも上るチャンネルがあり(DVRの“事実上の標準”になるか——全米を虜にした「TiVo」の秘密)
というのだから、わざわざレコーダーで保存しようという気も薄れてしまうだろう。

それでも、僕はこう考える。保存して見返すという行為が、一度だけ見たという記憶と全く違うことを。僕は、テレビは書き起こさなければ情報にならないでこう書いた。

100万人が見たとしても、100万人がおぼえている部分は、それぞれ違うものなのだ。これほど、情報を流すことにテレビが不向きなのは明らかである。僕が、対談を書き起こすのは、テレビが流している情報を、誰が見ても同じ情報として固定化できるからだ。固定化できれば、これは未来に残すことができる。
そして、保存して見返すよりも、改めて内容を書き起こす行為は、見ている人の頭脳に影響を与えるに違いない。

インターネットが普及して膨大な情報を手に入れられる環境が整えつつある。図書館や本屋まで行かずに、または映画館に行かずに自宅で、情報を見るということは、確かに便利といえば便利だろう。だが、そのことによって、人々はより豊かになっただろうか。

僕は、「日本は龍馬を待っている」でこう書いている。

脱藩して日本中を歩き回らなければ、情報を手に入れられなかった幕末と、自宅にいながらにして世界の情報が集まってくる現代。しかし、いくら情報が分かるからといって、行動しなければ何も変わらない。むしろ、その情報を使って、どんな行動を取るべきかを考える段階に来た。
また、抜き書き・「たけしの新・教育白書」〜頂上対談よりでも池上彰氏がこんなことを言っている。
池上 あの、最近ですね。「風をつかまえた少年」という本を読みましてね、これはアフリカのマラウィという、アフリカの中でも最貧国、大変貧しい国のある少年なんですが、中等学校の学費が親が払えなかったからというので、学校に行けなくなるんですね。でも、「勉強したい」というんで、近くの小学校の図書館に行って、そこの本を借りて本を読んでいくんですよ、で、そのうちにあの発電の仕方を学ぶんですね。「あっ、この発電のやり方をすれば電気が起こせるんだ」その子の家には電気が来てないんですね、風力発電で電気を起こせるんだと気がついて、近くの廃品置き場からいろんなガラクタを持ってきて、自分で風力発電を作っちゃうんですよ。それで、電気がともるようになるんです。それが、その国で認められて、その子はさらにその後勉強できるようになり、とうとうアメリカの大学に今年留学したと。だから「勉強したいんだよ」という思いがあり、そこに学校の図書館があれば、きっかけさえ作ってあげれば、たとえ貧しくてもお金がなくても勉強することはできるということですよね
それで思い出したのは、100ドルパソコン運動というのがあった。
マサチューセッツ工科大学のニコラス・ネグロポンテを中心とするNPOOLPC(One Laptop per Child)が開発しているノートパソコン。
発展途上国を中心に100ドルパソコンを各国政府が一括購入し、世界中の子供達に配布し教育を行うプロジェクトが進められている。(100ドルPC YAHOOニュース)
この運動も貧しくて学校にも行けない子供たちに学ぶ環境を与えようというものだと思う。
もちろん、学ぶ環境を与えられても、学ぶ時間がなかったり、学ぶ意欲がなかったりする子もいるので、その分金を配ったほうがいいという人もいるかもしれない。でも、学ぶ子が一人でも生まれれば、その子を中心にその国を変えることができる可能性がある。

ブログによる学ぶ環境

僕は、「夢幻∞大のドリーミングメディア」と題して、情報発信をしてきた。スクラップブックとして、あらゆる情報を集め、一つのテーマにして考えてきた。確かに、影響力は小さいだろう。現在、エントリー数840本、それぞれの力は小さくても、それぞれには読者が学ぶための種、発想の種が含まれている。僕は他人がどのような考えでブログを書こうと、気にしない。ただ、一人でも僕のエントリーから学ぼうとする人が育つことを願うだけである。
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