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素人だから言えることもある

マジョリティ憑依によるいじめの断罪

いじめっ子をいじめるというマジョリティ憑依

大津の中二自殺事件、ネットではすでに名前が特定されている。これなどは、教室の中の閉鎖的ないじめが一挙に公開処刑と化してしまったことになる。マジョリティ憑依に関しては、「マジョリティ憑依」が多すぎるで、<マイノリティ憑依>が幻想の少数派に憑依したものであるのに対して、<マジョリティ憑依>は幻想の多数派に憑依したものだからだ。彼らは、いじめっ子という格好のターゲットを見つけ、まるですべてを暴露しなければならないかのように正義の鉄槌がおろされている。シロクマの屑籠というブログに書かれた"叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点
現在、日本のメディア上では、ネットであれテレビであれ「バッシングを公認されるような過失・落度のある相手は、どれだけ叩いても構わない。その際、相手がどうなるかは配慮しなくて構わない。それが社会だ」という風景がリピート再生されている。なにか不祥事や事故があったら、法的責任が問われるだけでなく、責任者は罵倒され、土下座させられる。法的責任を追求するのとは別に、“感情を納得させる”ために罵倒すること・土下座させることを、社会正義とみなすような空気ができあがっている。("叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点)
かつて、僕は映画「誰も守ってくれない」のパンフレットに書かれたタブーを思い出した。
<タブー>
オウムで、何かが「タブー」を超えてしまった。戦争でも使わなかったサリンが使われた。「タブー」とは、やってはいけないこと。それはたぶんに感覚的なものだ。犯罪とは別に僕らがやってはいけないこと。それを軽々超えてしまった。
ネットもそうだ。「タブー」を超えている。いま、ネットでは「正義」という名の下に「タブー」が超えられているような気がする。人それぞれの中に感覚的にあった「タブー」が、いま崩壊しかけているような気がする。おそらくネットは「タブー」を破りやすい媒体だったのだ。(「誰も守ってくれない」プログラムより)(正義を振りかざすもの)
この映画を監督した君塚良一氏はこう言う。
正義って胸に秘めておくものだったんですね。いまはみんなそれぞれが孤立してしまって、孤立をうめる方法もなくて、誰を攻撃していいか、信じていいかわからないときに、おそらく別のアイコンとして正義という言葉が出てきたと思う。かつての“正義の名の下に”という言葉の“正義”じゃない。正義という言葉を使って攻撃することで一体感を得たり、自分が生きている証を作ろうとしている。孤立を解消するための言葉にすぎないし、ねじれているし、間違っていると思う。それは正義じゃないよ………。正義はそれぞれが胸に秘めておくべきものだと、僕は今でも信じています。(「誰も守ってくれない」プログラムより)(正義を振りかざすもの)
マスメディアが事件を報道するたびに、血に飢えた正義漢たちは、嬉々としてターゲットをいじめに走る。その姿は、まるで事件を起こしたいじめっ子と何ら変わりはない。前項抜き書き「“忘れられる権利”はネット社会を変えるか?」でナレーションで語られたケースと酷似する。
NA あわてたAさんは、ツィッターなどへの投稿や写真だけでなく、アカウントそのものも削除しました。しかし、もはや手遅れでした。Aさんの個人情報は、誹謗中傷の言葉とともに、すでに別のサイトに転載されており、次々とコピーされ、増殖し続けていたのです。
その後、自宅に脅迫めいた手紙まで届くようになり、仕事も辞めざるを得ませんでした。
Aさんを誹謗中傷する情報は、半年以上たった今も、ネット上に残り続けています。ツィッターに書き込んだ一言がきっかけで、人生を翻弄されたAさん。今も自宅にこもりがちな日々が続いています。(抜き書き「“忘れられる権利”はネット社会を変えるか?」)
おそらく、今回のいじめっ子たちも同じ経緯をたどるだろう。親や教師がいくら否定しても、ネットには通用しない。つまり、本来公平に裁くべき司法機関に到達する前に、ネットによってリンチを与えられているのに等しい。

いじめという閉鎖空間の正義

いじめられている者は、教室のなかでは少数派(マイノリティー)である。いじめている方だって、実はマイノリティなのだ。マジョリティは、この両方に関心がないか、巻き込まれるのを避ける人たちである。もし、下手なことをしていじめられてはかなわないので、マジョリティの意向がどちらに向かっているかの空気を読む。いじめっ子たちが優勢だとみれば、いじめられっ子を助けようとはしない。見て見ぬふりをするわけだ。教室の中では、そうやってバランスを取る。

ところがひとたび、事件が明るみに出れば、その情報がいじめっ子の周りから外に出る。もちろん、いじめっ子たちは、そうなることを当然知るべきだが、人間、ひどい目に会わない限り、学ばないものである。正義は、事件が明るみになってネットによって初めて下される。これじゃ、事件が減るわけがない。警察官や判事がいくら増えても、事件のもとを断つわけではないのだ。ひとりひとりの心の中に正義心を秘め、事件が起こらないように、事件を止めるのが正義だったはずなのに。
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