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素人だから言えることもある

ネットの処刑人

マンハッタンの処刑人と正義の女神

BSのD-lifeで、「クリミナル・マインド」の第一シリーズ放送されている。昨日、
放送されたのは「マンハッタンの処刑人」。
EP17 マンハッタンの処刑人
マンハッタンで猟奇連続殺人事件が発生。犠牲者はいずれも目隠しをされ、銃で撃たれた上、耳から脳にナイフを突き立てられていた。当初は同一犯の犯行と思われたが・・・。(D-life「クリミナル・マインド」エピソード)
ストーリーをバラすと、これらの犠牲者は、いずれもが裁判で証拠不十分で無罪になった者たちだった。マスコミでは、司法がさばけなかった犯人たちを裁いたことで、英雄の名をこの事件の犯人に名づけた。日本でも、必殺仕掛人などの必殺シリーズ、アメコミのバットマンなど、警察や司法では間に合わない市民の不満を解消する影のヒーローが喝采を受けるのもうなづける。

ところで、この犠牲者への目隠しが犯人への大きなヒントになっている。それは、裁判所の前に立っている彫刻「正義の女神」が目隠しをしているからだ。そして犯人が裁判所の関係者であることが明らかになって来る。僕は、犯人捜しよりも、「正義の女神」に興味を持った。
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(Lady Justice-Wikipedia)

剣と天秤を持つ正義の女神の姿は、司法・裁判の公正さを表す象徴・シンボルとして、古来より裁判所や法律事務所など、司法関係機関に飾る彫刻や塑像、絵画の題材として扱われてきた。現在は目隠しをした像が主流であるが、目隠しがないものも多い。最高裁判所中央大学多摩キャンパス内、虎ノ門法曹ビル(東京都港区)など日本国内にもテミス像が存在する。弁護士バッジにも女神の天秤が描かれている。(概要)

(中略)

彼女が手に持つ天秤は正邪を測る「正義」を、剣は「力」を象徴し、「剣なき秤は無力、秤なき剣は暴力」に過ぎず、法はそれを執行する力と両輪の関係にあることを表している。目隠しは彼女が前に立つ者の顔を見ないことを示し、法は貧富や権力の有無に関わらず万人に等しく適用されるとの「法の下の平等」の理念を表す。

目隠しはそもそも剣と天秤の含意する正義には矛盾する付加物であり、当初はおそらく逆の解釈であったと考えられる。15世紀末に見られる木版画ではさしあたり嘲笑目的の戯画としての意味があった。1495年の木版画では、馬鹿者が正義の女神の目に目隠しをしている。シュバルツェンベルグは1517年のバンベルク刑事裁判令のなかで、全裁判官合議体に馬鹿者の帽子と目隠しを着せて「法に逆らい悪い習慣に基づいて判決を出す。これぞこの盲目の馬鹿者の生業なり」と書いている。目隠しについて長尾龍一は正義の実力的側面に着目し、「正義の女神は娼婦であり、戦いの結果が明らかになった段階で勝者の胸に抱かれる。また闘争が起こり勝者が入れ替わると新たな勝者の胸に抱かれる。正義の女神は腕づくで押さえこまねばならない」点の寓意したものと解釈する。

目隠しの寓意する意味はゲーテの時代には「人物の名声を顧慮しない公正さ」に転換しており、目隠しをした正義の女神像が製作されるようになったのは法の平等の理念が生じた16世紀頃以降で、19世紀頃より目隠しをした像が主流になる。また目隠しを取った状態の、全体を見通して公正な判断を下す女神とされているケースもある。
 (各装備品の含意)
(正義の女神-Wikipedia)

そういえば、勝利の女神について書いたことを思い出した。(勝利の女神を追いかけるものたち)

裁判というものは、長期にわたり、検察・弁護双方からの証拠に基づき判断するものだから、もとより、ネットの情報から下された正義とは異質なものにならざるをえない。ネットですべての情報を精査して判断することなど不可能であり、結局、自分の都合の良い情報選んでいるにすぎないのだ。だから、裁判が周りの情報を遮断して、つまり目隠しして判断するのも、女神ではない人間が「全体を見通して公正な判断を下す」など不可能であることを示している。

報道ステーション水谷修氏の発言から

7月10日の報道ステーションに、夜回り先生こと水谷修氏が出演した。

その後半を書き起こす。

古館 しかし、無念だったろうと思うあまり、人間は何かにあたってしまうということもあるので、そこも冷静じゃなきゃいけないということをちょっと感じるので、

水谷 今ねえ、ネット上に、いろんな理由があって、子どもたちをいじめたとされる名前や、それこそ自宅の写真や、顔までさらされていますよね。これが許せない。今、だってね、誰が判断して、犯罪者だと決めるんですか。今、もうすでに裁判所は動いてくれてるんですね。法務省が、これで裁判官、判事が見ていくし、これから事件立件していくなら家庭裁判所の調査か、判事が見ていくわけですよ。それを勝手に判断して、彼らは犯罪者だ、ね、それは名前を出す、とんでもないことですよ。

古館 遺族の思いというものに、考えをいたすことと、同時にだからと言って、今の話のあたりを考えていくといけないところですね。

水谷 あの、よく罪を憎んで人を憎まずというけれども、確かにやった子たち、この子たちのやったことは、大変なものだし、許せない。もし、これが事実ならば、それは追って責任を必ず、親も子も取らなきゃいけない。それを関係のない第三者が、あおり立ててさらしものにする。これをやっている人たちに言いたい。これを本当のいじめというんです。(夜回り先生 大津市中学イジメ自殺問題について語る)

この放送を見た人たちから様々な反論が来た。いわく、ネットが騒がなければ、警察も教育委員会も動くことはなかった。確かに、そういう面はあった。教育現場は、隠ぺい体質で、かなりのいじめが見過ごされてきたのだろう。訴えてもらちが明かない部分もあったに違いない。しかし、ネットをこういう形で使うのは根本的に間違っているのではないか。顔をネットにさらして反応がなければ、今度は、学校現場に爆破の予告が来たり、逃げ出した関係者の居場所を探し出したり、さらには嫌がらせの電話を掛けたり、いくらでもエスカレートしていく。最初は純粋な正義のつもりで追いかけていくうちに、それが麻薬のように蝕んでいく。映画「スパイダーマン3」で、メイおばさんはこんなことを言う。
「復讐はまるで麻薬よ。気がつくと人をすっかり変えてしまうわ」 (メイ伯母さん・予告編より)(「バベル」と「スパイダーマン3」の2つのダークサイド)
初めは、悪いことをした人を許しておけないという軽い気持ちだった。それが、事件が起こるたびにエスカレートして暴力に歯止めがかからなくなってくる。「スパイダーマン3」のサム・ライミ監督はこう言っている。
「ピーター・パーカーはヒーローであることを意識し、正しいことをするために犠牲にしなければならないこともわかり始めている。ところが急に誰かに憧れられたり、励まされたりするようになったことが、予想外の影響を及ぼすんだ。彼の性格の高慢な部分が刺激されて、ダーク・サイドへの移行が始まる。

(中略)

でもクライマックスでは、ピーターは自分の暗黒面を追い払わなければならない。復讐の気持ちを捨て去ることになるんだ。私たちは皆罪人で、誰もが誰より勝るということはない。この物語でピーターは、相手を“許す”ということを覚えるんだ」(映画「スパイダーマン 3 」プログラムより) (「バベル」と「スパイダーマン3」の2つのダークサイド)

正義のヒーローでも、ダークサイドに落ちる。我々普通の人間はなおさらである。自分こそは公平無私で、いつも相手の悪を糾弾できるなんてことはない。もし、それを第三者に判断してもらおうとするには、すべての善悪の情報をさらけ出さなければならない。つまり、相手の悪をさらすことは、結局、自分の悪をさらすことなのだ。正義を下すということは、自分にも厳しくなければならない。そして、それをしない限り、正義の女神の「秤なき剣は暴力」となり、いじめそのものになってしまう。そもそもいじめとは自分が安全な立場にいるから成り立つものだからだ。
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