夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

ネットによって加速される公私混同・2

尖閣諸島の国有化や竹島問題により、アジア近辺のデモが過激化している。一方、中国政府が自国の領土を主張している限り、国内デモを取り締まることはできない。もし、取り締まれば、自己矛盾となり、政府批判の暴動となってしまうからだ。そして、中国国内の日本企業の生産工場が暴動の目標になる可能性も強い。このままでは、どちらの国にとっても不幸である。

ところで、なぜか、ネットによって加速される公私混同のアクセス数が増えている。調べてみれば駄文にゅうすの9月1日付に載っていた。

これもまたネットの過激性に人々の視点が向いている証拠なのではないか。そこで、過去に引用した言葉で何か解決のヒントになるものがあるかどうか調べてみた。見つけたのが、検証なきメディアは価値がない(マスメディアは人から腐る・2) 内田樹氏の言葉だ。

私が今のネット上の発言に見る一般的傾向はこれである。
自分自身が送受信している情報の価値についての過大評価。
自分が発信する情報の価値について、「信頼性の高い第三者」を呼び出して、それに吟味と保証を依頼するという基本的なマナーが欠落しているのである。
ここでいう「信頼性の高い第三者」というのは実在する人間や機関のことではない。
そうではなくて、「言論の自由」という原理のことである。
言論が自由に行き交う場では、そこに行き交う言論の正否や価値について適正な審判が下され、価値のある情報や知見だけが生き残り、そうでないものは消え去るという「場の審判力に対する信認」のことである。
情報を受信する人々の判断力は(個別的にはでこぼこがあるけれど)集合的には叡智的に機能するはずだという期待のことである。
それは自分が言葉を差し出す「場」に対する敬意として示される。
根拠を示さない断定や、非論理的な推論や、内輪の隠語の濫用や、呪詛や罵倒は、それ自体に問題があるというより(問題はあるが)、それを差し出す「場」に対する敬意の欠如ゆえに「言論の自由」に対する侵害として退けられなければならないのである。(ネット上の発言の劣化について)
その文章の後半にこうある。
「国民レベルで周知される必要のない情報」には二種類ある。
「重要性が低いので(例えば、「今のオレの気分」)、周知される必要がない情報」か「あまりに重大なので(例えば、尾山台上空にUFOが飛来した)、それが周知されると社会秩序に壊乱的影響を及ぼす情報」の二つである。
そして、私たちは長い間のマスメディア経験を通じて、「自分は現認したが、マスメディアに報じられない情報」はとりあえず第一のカテゴリーのものとみなすという訓練を受けていた(ぶつぶつ文句を言いながら、ではあるが)。
それが揺らいできた。
マスメディアの「マップ機能」が著しく減退したからである。
マスメディアのマップ機能が低下すると、私たちは自分の知っている情報の価値を過大評価するようになる。
私が知っていて、メディアが報道しない情報は、「それを知られると、社会秩序が壊乱するような情報」であるという情報評価態度が一般的になる。(ネット上の発言の劣化について)
個人的な情報の過大評価はマスメディアの劣化と大きな関連があるという。ここで論じられるのはあくまでも「国民レベル」である。中国人レベルや韓国人レベル、ましてや日本人レベルの情報が共有化しているわけではない。たとえインターネット上で世界中のあらゆる情報が探せば見つかるとしても、まず最初に流されるのは、国や政府のバイアスのかかったマスコミの情報であり、ネットを持たない国民が大多数の国は、とりあえずそのマスコミ情報を信じるか信じないかしかできない。一方、インターネットを持った国民は、いかにマスメディアが劣化していることを知る。

そして一か月後に書かれた「情報リテラシーについて」というブログでは、

その「情報平等主義」がいま崩れようとしている。理由の一つはインターネットの出現による「情報のビッグバン」であり、一つは新聞情報の相対的な劣化である。人々はもう「情報のプラットホーム」を共有していない。私はそれを危険なことだと思っている。

(中略)

インターネット・ユーザーとして実感することは、「クオリティの高い情報の発信者」や「情報価値を適切に判定できる人」のところに良質な情報が排他的に集積する傾向があるということである。そのようなユーザーは情報の「ハブ」になる。そこに良質の情報を求める人々がリンクを張る。逆に、情報の良否を判断できないユーザーのところには、ジャンク情報が排他的に蓄積される傾向がある。
「情報の良否が判断できないユーザー」の特徴は、話を単純にしたがること、それゆえ最も知的負荷の少ない世界解釈法である「陰謀史観」に飛びつくことである。ネット上には、世の中のすべての不幸は「それによって受益している悪の張本人(マニピュレイター)」のしわざであるという「インサイダー情報」が溢れかえっている。「陰謀史観」は、この解釈を採用する人々に「私は他の人たちが知らない世の中の成り立ちについての“秘密”を知っている」という全能感を与えてしまう。そして、ひとたびこの全能感になじんだ人々はもう以後それ以外の解釈可能性を認めなくなる。彼らは朝から晩までディスプレイにしがみついている自分を「例外的な情報通」だと信じているので、マスメディアからの情報を世論を操作するための「嘘」だと退ける。こうやって「情報難民」が発生する。彼らの不幸は自分が「難民」だということを知らないという点にある。
情報の二極化がいま進行している。この格差はそのまま権力・財貨・文化資本の分配比率に反映するだろう。私は階層社会の出現を望まない。もう一度「情報平等社会」に航路を戻さなければならないと思っている。そして、その責務は新聞が担う他ない。(情報リテラシーについて)

当然、内田氏は、この文章が朝日新聞の「紙面批評」に書かれた文章であり、「その責務は新聞が担う他ない」という言葉がリップサービスに見えないこともない。佐々木俊尚氏は、
ネットで情報の不平等(不均衡)が起きていることに対して、かつてのマスメディア時代のような情報平等社会に戻すべきでは、という主張。私は不平等が起きていることには同意だけど、「新聞によって」平等社会に戻すのはもうあり得ないと思っています。(https://plus.google.com/104909598355094020693/posts/8bawgqVBue8#104909598355094020693/posts/8bawgqVBue8)
そして佐々木氏は、
ただ、実際に現在情報の著しい不均衡がネットの中で起きてきているのは事実で、多様性を推し進めた情報プラットフォームから完全に切り離されているわけではないけれども、多様な情報が流れ込まず一面的な見方にだけ集中してしまう低リテラシー層というのが出てくるのは、やはり否定できないのではないかと思うわけです。


私はこれは現在の「移行期的混乱」だと捉えていて、いずれは「マスメディア2.0」みたいなのが登場してきて問題は解消され、再び情報平等社会に回帰していくかもしれません。あるいはもっと別のアーキテクチャが出てくるのかもしれません。

しかしこの移行期は相当に永く続く可能性があり、その移行期の間は情報の不均衡がおびただしく生じ続け、これが社会のあり方に対して強い影響を与えていく可能性は高いと思っています。(https://plus.google.com/104909598355094020693/posts/8bawgqVBue8#104909598355094020693/posts/8bawgqVBue8)

見てきたように、現在起こっている領土問題のデモの過激化は、情報の不平等と、マスメディアの劣化にある。マスメディアへの不信は、一党独裁の中国にとって、即政治不信につながる。一方でデモを許せば許すほど、過激化はエスカレートして、内乱を引き起こす可能性を秘める。アラブの春が、インターネットから始まったように、中国の政治不信がデモと表裏の関係であることを思い起こさなければなるまい。そしてネット上の情報の共有化・言論の場の構築がなされなければ、根本的な解決には程遠い。
ブログパーツ