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素人だから言えることもある

なぜ、日本のマスコミは、「空気を読む」のか

朝日新聞デジタルに【放送】日本のテレビ局はなぜ反原発の動きを報じ損ねたのか?という記事があった。著者はTBSの金平茂紀氏。興味深いのは、ニューヨーク・タイムズマーティン・ファクラー東京支局長の言葉を引用していることだ。

 〈私が12年間、日本で取材活動をするなかで感じたことは、権力を監視する立場にあるはずの新聞記者たちが、むしろ権力側と似た感覚をもっているということだ。似たような価値観を共有していると言ってもいい。国民よりも官僚側に立ちながら、「この国をよい方向に導いている」という気持ちがどこかにあるのではないか。やや厳しい言い方をするならば、記者たちには「官尊民卑」の思想が心の奥深くに根を張っているように思えてならない〉(『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』(双葉新書))
僕は、マスメディアが官僚的だということに関しては、何度も指摘している。ただ、マーティン・ファクラー氏の「官尊民卑」というよりも、「民」である日本のあらゆる会社組織が縦社会の官僚主義そのものなのだ。このことが、ジャーナリズムの信頼性を阻害しているというしかない。ブログ・ジャーナリズムは誕生するかでも、
 そして、これが一番重要なのですが、何をどう報道するかという肝心な問題を突き詰める前に、「デスクは許してくれないだろうな」とか、「会社の編集部はどう評価するだろうな」とか、目が社内を向いてしまっている。会社組織だから、上司の指示に従うのは当然という側面もありますが、そこに議論がない。議論する前に、自己規制してしまっている。そういう例が実に多いのではないかと推察します。要は、新聞社やテレビ局の組織が官僚組織に似た存在になってしまったのではないか。
 自分で判断しない・できない、責任も取らない・取ろうとしない。上司の顔色をうかがう、組織内の評価ばかり気にする、だから仕事は過去の例に即して進める…こうやって言葉にすると、みもフタもないですが、それが取材現場の実感ではないでしょうか。(湯川鶴章著/高田昌幸著/藤代裕之著「ブログ・ジャーナリズム—300万人のメディア」野良舎)
自分が見たまま、思ったまま書くことが許されない。とりあえず、社内の「空気を読む」ことから始まる。これなどは、フリージャーナリストの山本美香氏の死を取り扱ったジャーナリストの死とジャーナリズムの死と全く逆だ。

同じジャーナリストであっても、マスという組織になると、純粋に見たものをそのまま伝えることができなくなる。ようやく、自分の思いを伝えることができるのは、組織を離れた時であるというのは、あまりにも悲しすぎないだろうか。そして、そのことは

いま伝えなければならないことを、いま、伝える。いま言わなければならないことを、いま、言う。「伝える」とは、いわば報道の活動であり、「言う」とは、論評の活動である。それだけが、おそらくジャーナリズムのほとんど唯一の責務である。(新井直之「ジャーナリストの任務と役割」p26『マス・メディアの現在』[法学セミナー増刊総合特集シリーズ三五]日本評論社)(ジャーナリズムはマス・メディアの特権ではない(マス消滅元年・6)  )
というジャーナリズムの責務を根本的に外れているというしかない。
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