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素人だから言えることもある

踊る大捜査線ファイナルの2つの言葉(ネタバレあり)

踊る大捜査線ファイナルを見てきた。室井、青島の2人の言葉が記憶に残る。

一つは、柳葉敏郎演じる室井慎次の言った「組織の中にいる人間こそ信念が必要」であり、織田裕二演じる青島俊作の言った「正義を守るには胸に秘めておくくらいがちょうどいい」という言葉である。

組織の中にいる人間こそ信念が必要

 室井は、縦割りの警察組織の中でもがいていて、所轄の警察署と本店の警視庁の自分なりの警察改革を打ち出せないでいた。脚本を書いた君塚良一氏はいう。
 もともと「踊る」は、組織の中で働く人間の信念を描いた物語。信念を持っていてもいいのか。組織にいる以上、持っていてはいけないのか。ずっと葛藤している話だったんですよ。

その中で、なぜ青島がずっと続けてこられたかというと、上層部に室井という理解者がいたんです。さらに言うと、他にも「俺だって信念は持ちたいよ。だけど出来ないんだよ」と思っている人がいたはずなんです。

ところが、ここ数年、世間を見ていると、どうも上はそう思っていない。自分の利益とか、組織の利益とか、保身とかになってしまった。今、どこかの組織に青島みたいな存在がいても、おそらく反応されないし、理解をされることもない。いらないから邪魔、無視しておきなさいという感じになったんだろうな、と。

では無視された今の若者たちがどうなるんだろうというのが今回のお話。「踊る」ではいつも刑事映画の名作にオマージュを捧げていたけれど、今回密かに僕は「ダーティハリー2」をやっているんですよ(笑)。(踊る大捜査線THE FINAL新たなる希望プログラムより)

警察幹部に裏切られるというのが、「ダーティハリー2」との共通点なのだろう。

そもそも「踊る大捜査線」では、本庁と所轄署の上下関係がテーマであった。「踊る大捜査線」の作り方で引用した、著書「テレビ大捜査線」の中で「踊る大捜査線」の基本テーマについて君塚氏はこう書いている。

 すると、しだいに警察という組織全体が見えるようになってきた。組織の縦割りの二重構造が見えてきたのだ。本庁と所轄署。この二つが、まるで一般企業の本店と支店のような構造を持っていた。

 さらに、警察官には、キャリア組と言われる国家公務員のいわゆるエリートと、ノンキャリアの刑事たちが行う。調べていくと、捜査は所轄の刑事が進め、犯人逮捕の瞬間は、本庁の捜査員が手錠をかけることが判った。

「おいしいとこはみんな上がもっていって、わたしら現場の刑事はただの兵隊でした」
 と最初の取材で聞いた元刑事の言葉がやっと理解できた。

 組織論という見方をすれば、主人公が犯人を逮捕しない物語を作れる。

 こうして、本庁の捜査一課のエリート管理官が新たな登場人物となる。捜査するだけで逮捕できない所轄の主人公と、本庁の官僚候補との対立と友情という、このドラマの中心を貫くテーマができあがったのである。(君塚良一著「テレビ大捜査線」講談社)

普通の刑事ドラマだったら、犯人を逮捕したら終わりである。わざわざ室井を登場させる必要もない。

「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!」は、青島の名言だが、昔からよく言われる言葉に、「会議は踊る、されど進まず」という言葉がある。

ナポレオン戦争の戦後処理と新たな国際秩序の建設を巡る、オーストリア外相メッテルニヒ主宰のウイーン会議(一八一四〜一五)が、晩餐会・舞踏会・音楽会三昧で一向に議事が進行しない様を風刺したことば。(コトバンク)
会議の中で舞踏会があるから、「会議は踊る」とはよく言ったものだが、「踊る大捜査線」の「踊る」も「会議は踊る」から来たのかもしれない。なぜなら、本庁では円卓の会議室ばかり登場するから。

それはともかく、組織が巨大になればなるほど、会議が増える。信念を持ってやろうとしても、何のためにやろうとしているのか分からなくなる。いつの間にか、会議をこなすために会議をやっているのではないかと思えてくるものだ。

ただ、自分がこの会議に参加しているというステータスを維持したいために会議が開かれている。本来だったら、組織を使って何をやるかが目的なのに、自分が組織に残ることが目的になってしまう。室井は、改めて信念を持つことの大切さを学んだのだろう。

正義を守るには胸に秘めておくくらいがちょうどいい

この言葉は、青島が犯人の警察幹部が「これが正義だ」といって犯罪を行ったことに対して、言った言葉である。君塚氏が監督した「誰も守ってくれない」でもこう言っている。
正義って胸に秘めておくものだったんですね。いまはみんなそれぞれが孤立してしまって、孤立をうめる方法もなくて、誰を攻撃していいか、信じていいかわからないときに、おそらく別のアイコンとして正義という言葉が出てきたと思う。


かつての“正義の名の下に”という言葉の“正義”じゃない。正義という言葉を使って攻撃することで一体感を得たり、自分が生きている証を作ろうとしている。孤立を解消するための言葉にすぎないし、ねじれているし、間違っていると思う。それは正義じゃないよ………。正義はそれぞれが胸に秘めておくべきものだと、僕は今でも信じています。(「誰も守ってくれない」プログラムより)( 正義を振りかざすもの)

この映画「誰も守ってくれない」は、ある事件の犯人の妹を守る刑事の話であり、少年たちが加害者の家族をネットで探しだしたり、ケータイで写真を撮るシーンが出てくる。犯人の家族だから、攻撃しても構わないという考え方は正義の名のもとに行われる犯罪である。

これは今回の「踊る大捜査線ファイナル」の警察幹部の犯罪にもつながる。警察幹部保身のための会議を糾弾するために行う犯罪は正義だから許されるという考え方だ。大体、警察が犯罪を取り締まるのに、法に則って捕まえるのは当たり前である。そしてその法は、正義に基づいていることも。

だが、ことさら正義を振りかざしたとき、時として法を越えてしまう場合が多いのではないか。わざわざ正義を名乗るのは、心の底でどこかでこれは正義じゃないんじゃないかと思っている。それを打ち消すためにわざわざ正義だと言ってごまかしている。君塚氏は、だから「正義を守るには胸に秘めておくくらいがちょうどいい」と考えたのだ。
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