力への幻想(強いアメリカと強い日本・2)
アルジェリア人質事件
またもや、アルジェリアで人質事件が起こった。アルジェリア政府が言うのはいつも『テロリストとは交渉しない』の一点だけだ。テロリストは強力な武器を持って、弱者たちを誘拐する。「人命は尊重しなければならない」とは言うが、その人命が単なる交渉の手段になっている。政府は、まず最初に守るべきなのは人質の人命であるべきだが、時の政権にとって大事なのは、国内の有権者たちである。有権者たちは、テロリストに屈しない強い政権を求めている。もし、他国の軍隊に協力を求めて人命を助けることができたとしても、自分たちの国の誇りを毀損してしまうだろう。つまり、この時点で力のバランスの上で人質の人命はただの手段に陥ってしまう。確かに、世界中から非難されるかもしれない。だが、国内の有権者の支持がなくては、政権を維持することができない。このように、海外では、人命は国内政治によって左右されるのである。アメリカにおいても、銃の規制が進まない。強いアメリカと強い日本で僕はこう書いた。
>結局、アメリカでは、銃を規制する法律をそれほど信じてないのだろう。もし、できたとしても、これほど普及してしまった銃の前では法律など無力だと思っているのだ。確かに、法律など銃の前では無力だ。この力信仰はどこから来るか。
力は正義
イスラム教もキリスト教も一神教である。宗教史をひもとけば、ユダヤ教を含め仏教以外の三大宗教は親戚筋にあたる。正義の見方(異文化文献録) で引用した木村尚三郎氏の言葉アメリカには強いものには神が味方するという思想があり(木村尚三郎「 ヨーロッパの窓から 」講談社)を思い出す。そこで改めてこの本から該当箇所を引用してみる。
中世ヨーロッパでは、貴族が裁判で相争い、どちらが正しいのか分からない場合、裁判官は双方に対し、自分の目の前で決闘せよと命じました。これを法廷決闘ないし裁判決闘といいますが、そこには、正しい者には必ず神が味方するはずだから、決闘に勝った方が正しいという思い込みが存在しています。そして決闘に負けた者は、たとえ生きていいても死んでいても、あらためて絞首刑に処せられました。力は正義なり、です。(木村尚三郎著「随想 ヨーロッパの窓から」講談社)おそらく、他の一神教でも同じようなことを言っているのだろう。自分たちの宗教は正しくて強い。だから、勝たなければ正義ではない。その宗教の正しさを証明するために勝つまで戦争を繰り返す。テロリストも政府もより強い兵器や武器を手に入れて、我こそは正義との思いで戦うのだ。これでは、人質の命など誰も考えなくなる。
改めて「24」のジャック・バウアー的生き方こそが「力は正義」を実現していることだと考えられる。彼がいかにルールを破ろうと、最後に勝って生き残るから正義なのだ。
しかし、アメリカ人がすべてジャック・バウアー的生き方であれば、アメリカは無法地帯となってしまう。それに人間はドラマのように強い存在ではない。肉体の弱い者、メンタルの弱い者から脱落していく。
強者のための宗教か、弱者のための宗教か
だが宗教は戦争を引き起こすために作られたはずではないはずだ。むしろ、強い者よりも弱い者のために造られたはずなのに、どこで間違ったか。テロリズムと神、幕僚長の奇妙な思想で、僕は宗教の源流について考えていた。たとえば、「復讐するは我にあり」という言葉の「我」は神のことであり、決して復讐者でない事を愛する者たちよ、あなたがたは自分自身で報復せず、むしろ(神の)怒りに場所を譲りなさい。(次のように)書かれているからである。復讐は私に属すること、私こそ報復する、と主が言われる。(ローマ書12-14〜21)(荒井献・池田裕一編著「聖書名言辞典」講談社)旧約聖書には「目には目を」と書かれている。しかし、キリスト自身は批判的だ。
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」38-39節 (新約聖書[布忠.COM] )さらに、コーランの「目には目を」でも
また、命に値するだけの償いで納得する場合には、復讐心を持ってはならないとも言っています。これは、報復に継ぐ報復によっていたずらに多くの命を失うことを避ける為の規定と取れ、この部分だけを見ても、今「イスラム過激派」と呼ばれる人たちがしている「テロ・無差別テロ」がコーランから外れており、多くのイスラム教徒の信仰とは、異質なものであるといえます。(中東問題私的考察リンク切れ)<などと、報復合戦になることを諌めている。そもそも「力は正義」が正しければ力のない弱い者は生き残れない。宗教から見れば、信仰者を増やしたいのであり、そのような信仰者を減らす正義の戦争がいかに愚劣かを知らなければならないのである。
神の使徒が「加害者であれ、被害者であれ、汝の兄弟を助けよ」と命じた時、或る男が「害を受けている人を私は助けますが、害を加える者をどうして助けることができるでしょうか」と言うと、彼は「害をさせないようにすること、それが助けることなのだ」と応えた。(イランという国で:思い出してほしいこと)