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素人だから言えることもある

映画「おとうと」に見る家族内コミュニケーション

賢い姉と愚かな弟

 山田洋次監督の「おとうと」を見てきた。どんな家でも、親戚には必ずいる困った人。映画「おとうと」では、吉永小百合の姉・吟子と笑福亭鶴瓶の弟・鉄郎を中心に描かれている。愚かな兄と賢い妹の関係は、同じ山田洋次監督の「男はつらいよ」で描かれていたが、今回はその逆である。そのような落ちこぼれがなぜ生まれるか。「おとうと」のパンフレットのインタビューから探ってみたい。吟子役の吉永小百合氏はこういう。
——弟の鉄郎が、なぜ、いわゆる社会的な落ちこぼれになったのか、吉永さんご自身は、どう感じていらっしゃいますか。

 台詞でも説明されますが、すごく優秀な姉と、一生懸命努力する兄がいて、そんな中で、ひとり、落ちこぼれるダメな子どもがいますと、その子に目がいきにくくなるのではないでしょうか。家族を始め、親戚もご近所も、周囲がみな優秀な子どもだけに目がいき、期待をもって接し、褒めたり、ときには励ましたりします。ところが落ちこぼれた子どもが何か失敗をしでかすと、「ばかだね」「何やってもダメだね」などと、お兄ちゃんやお姉ちゃんと比較して、ダメさ加減をあげつらってしまうのかもしれません。兄や姉自身も、ひどい言葉を投げかけることはしなかったにせよ、落ちこぼれる弟に対して、その気持ちを推し量ったりすることはなかったと思うのです。

——子どもはとかく、親が喜ぶ顔を見るために、あるいは親から褒められたくて頑張りますから、何かと問題をおこしがちな弟に目を向ける余裕がなくなるんでしょうね。

 弟のようにはなりたくないという気持ちのほうが勝っているのでしょうからね。親に褒められたりするのが嬉しいというのは、言い換えれば評価されるということですよね。学校の先生や親から評価されることが子どもにとっての全世界からの評価になりますね。評価されるどころか、困った子どもとして見られていた鉄郎は、とても悲しかったと思います。褒められたり、感心されたりするという成功体験がなかったでしょうから、孤立感を深めながら、人とどう接していいのか、わからないまま成長していったのでしょう

——その鉄郎の孤独をいち早く感じ取ったのは、若くして亡くなった夫でしたね。

 娘の名付け親になるよう依頼するわけですが、私が演ずる姉も以来、弟の気持ちを理解するように努めていくうちに、だんだん弟を思いやるようになり擁護するようになっていったのだと思います。(「おとうと」パンフレットより)

 注目が賢い兄弟に注がれるので、どうしてもダメな子を無視してしまう。山田監督は、対等に対話ができるかどうかだという。
——吟子と小春の親子は、普段なんの波風を立てることなく暮らしていますが、鉄郎の登場が二人の関係のあり方をあぶりだしますね。

 吟子と小春の親子は、単に血がつながっているというだけじゃなくて、対等に話し合える知性的に結ばれた間柄だと思います。何が正しくて何が間違っているか。きちんとお互いの価値観を定義でき、近代人としてのつながりを持っている。鉄郎は「それ以前」なんですね。「理」によってコミュニケーションし、関係を作ることができない。

——ある種、寅次郎のような……。

 そうですね。『男はつらいよ』(69〜95)における寅さんの家族もちゃんと対話できる関係を持っていて、そこへ寅さんという旧式の男が交じって最後にはドガチャガにして「それを言っちゃあおしまいよ」って飛び出して行っちゃう。ちゃんと話を通して語れない人間が一人入ることでみんながとても困るという話ですよね。(「おとうと」パンフレットより)

 旧式の男という発言が出たが、音楽を担当した冨田勲氏も
——鉄郎というキャラクターがスッと心の中に入ってこられたようですね。

 昔はああいう人がよくいましたよね。ちょっと破滅的というか、酔っばらうと「俺にはでっかい夢があるんだ」みたいなことを叫んでね。人間社会の枠組みから外れているというか、前の時代の名残を持っているというか。最近こういう人はめっきりいなくなりましたけどね。(「おとうと」パンフレットより)

 なぜ、最近こういう古いタイプの男はめっきり減ったのか。

しょうがない人を受け入れていた昔の家族や地域

 娘の小春の再婚相手役の加瀬亮氏はこういう。
——加瀬さんは『おとうと』のもっとも大きなテーマはどこにあると思いましたか。

 僕が受け取ったのは「しょうがない(大目に見よう)という感覚です。いまは○か×ですぐにものごとを切り捨ててしまう時代だから、人に対して「しょうがない」と思う大らかさが抜け落ちている。たとえば、いまの若い人が吟子さんを見た時、なんて損をした生き方なんだと思うかもしれませんね。でも、この映画を観て人が愛おしくなるのは、描かれているのが損得ではない生き方だからだと思うんです。(「おとうと」パンフレットより)

 また山田監督も、
——ただ、「肉親のために何かするのは、しょうがないこと」というテーマも透けて見えます。

 だから肉親っていうのはつらいんですよ。世の中には冷酷に切り捨てる人もいるでしょうし、吟子だって、内心ではざわざわしている部分もあるでしょう。「なぜここまでやらなければいけないのか」って。でもそこを捨てられない。本当に肉親というのは厄介なものですよね。(「おとうと」パンフレットより)

 家族は、落ちこぼれだからといって切り捨てるわけにはいかない。せめて、家族だけでも受け入れる必要がある。映画の中では、近所の人たちも「あの子はしょうがない」といいながら、愛情を持って受け入れている。山田監督はこういう。
——吟子と小春の薬局が、すごく「ありそう」だったのにも頷けます。お客さんがみんな「こんにちは」って言いながら入ってきて、単なるお客と店という関係ではないような。

 実は、日々の暮らしについての僕の憧れを描いているんです。かつてお店と顧客との間には売り買いだけじゃない人間的な交わりがありました。店主とおしゃべりし、買い物に行った子どもが叱られたり褒められたり、小百合さんの薬局のある街には、昔ながらのそんなつながりを残している。だから、小春が結婚するときに自転車屋さんと歯医者さんがそろってお祝いを持って来る。なんとかして自分たちの街の子どもをつなぎとめようとしている。そんな愛情を住民たちが持った街なんです。

——なるほど、本来、現代劇に失われた部分ですね。

 寅さんだって、彼の場合は不良になっちゃったけど、「本当に大事なものは何か」という価値観についてはギリギリ持ってる。だから犯罪者にはならなかった。生育の過程で、地域の人々の愛情を受けたからでしょう。みんなが「寅ちゃんは私たちの街の子だから、しょうがないね」って認めてた。とても大事な要素だと思う。小春も、もちろん街の人たちの愛情にくるまれて、愛すべきキャラクターに育ちました。(「おとうと」パンフレットより)

現代社会は家族も地域もコミュニケーションが崩壊している

 山田監督は、家族も地域も対等に話し合える知性的に結ばれた間柄が必要だという。現代人の典型として、小春の元夫の話が出てくる。彼は、大学の医師でありエリートでもある。仕事が忙しく、会話もメールを通してしかできない。山田監督はこういう。
——対話ができる人たちは、ぶつかりながらも円滑に生き、対話できない関係はダメになってしまいます。小春の元夫の「向き合って何の話をするんですか」という台詞が象徴的でした。

 あれはイプセンの「人形の家」のなかの有名な台詞なんです。「何を話し合えと言うんだ」「ちゃんと向き合って、真面目な事を真面目に話したい」というのはノラの台詞。小春と結婚した医者の卵にはまったく理解できないことで、夫婦の間には真面目な問題なんてないのではないかと思っている。彼は生活者としての知的レベルはかなり低いと思うんですよ。夫婦に話し合うことなんて必要ないと思ってるんだから。そうじゃないんですよ、夫婦だからこそ、きちんと真面目に話し合わなきゃいけないということは19世紀のイプセンがすでに語っていることでね。(「おとうと」パンフレットより)

 鉄郎は民間ホスピスの「みどりのいえ」で家族や血のつながりのない人々の愛情に包まれて死んでいく。この「みどりのいえ」のモデルは東京山谷の「きぼうのいえ」である。施設長の山本氏は、
「きぼうのいえは、生きる場です。残りの時間に、その人らしく生き直すのをお手伝いできればと思っています。優しい人は優しく、怒りっぽい人は怒りっぽく、自分の生涯を振り返り、和解をしてゆく空間にすることが大事なんです」(「おとうと」パンフレットより
と語っている。和解をするためには、対等に話し合える知性的に結ばれた間柄が必要である。対話する時間を失った現代人に、果たして和解をすることは可能だろうか。
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