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素人だから言えることもある

2011年は「マス消滅元年」になるか

佐々木俊尚氏の「2011年新聞・テレビ消滅」から

この新書は、2009年6月に刊行されている。あと20日もたたないうちに、その2011年がやってくる。佐々木氏の「2011年新聞・テレビ消滅」のプロローグにこう書いてある。
そして最初にまず言っておこう。

先に書いたように、2008年からアメリカで始まった新聞業界の地滑り的な崩壊は、3年遅れの2011年、日本でも起きる。

そしてこの2011年はテレビ業界にとっては2つの大きなターニングポイントの年である。アナログ波の停波による完全地デジ化と、情報通信法の施行だ。この2つの転向点によって、テレビはこれまでの垂直統合モデルをはぎ取られ、電波利権はなんの意味も持たなくなり、劇的な業界構造転換の波へとさらされることになるだろう。

だから2011年は、新聞とテレビという2つのマスメディアにとっては墓碑銘を打ち立てられる年となる。

何社かは破たんし、業界再編が起きるかもしれない。もちろんそれ以降も、企業としての新聞やテレビの一部は残っていくだろう。しかしそうやって生き延びた新聞社やテレビ局は、もうマスメディアとはいえない別の存在に変わっているだろう

いったいその先に、何が待ち受けているのだろうか?(佐々木俊尚著「2011年新聞・テレビ消滅」文春新書)

僕は、地デジの問題では、意外に地デジ崩壊は近いかもしれない(ホームサーバの戦い・第77章) や、あなたは地デジ化が始まった原因をご存知ですか? 、新聞についても朝日新聞は、今、何を考えているか(ホームサーバの戦い・第67章) などで、エントリーしてきた。今回のエントリーは、トフラーの「富の未来」を使って「マスはなぜ消滅しなければならないか」について話してみたい。

マスは「第二の波」の遺物だった

アルビン・トフラーの「富の未来・上」の日本語版に寄せてに、こんな記載がある。
たとえば日本は、長年にわたって国内の均質性を誇ってきた。この均質性によって、大量生産、大衆消費市場、マス・メディアに基づく経済の必要に適した大衆社会が発達した。均質性を維持し、社会対立を減らす方法のひとつとして、移民の流入を制限してきた。

しかし、明日の先進的な経済では「非マス化」が進んでいく。多様化が進み、大衆ではなく、個人に焦点をあてるようになる。そして、社会の高齢化がさらに進む。今後は移民の受け入れを増やしていく必要があるだろう。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・上(P5)」講談社)

なぜ、第二の波(工業革命)では、大衆社会が登場し、第三の波(情報・知識革命)では多様化になったか。
大量生産では、画一的な製品を繰り返し製造するか販売し、製品をできるかぎり変更しないようにすることで規模の経済を確保できる。古い組み立てラインでは、製品に変更をくわえると極端にコストがかかることがその理由である。製品を少し変えようとすると段取りに時間がかかり、その間、組み立てラインが止まって何千人もの労働者が作業再開を待っていることになる。時間を空費し、間接費が積み上がっていく。

これに対して、「スマート」組み立てラインでは、製品の変更に必要なものはソフトウェアの数行のコードだけという場合もある。ボタンを押すだけで段取りが終わる。この結果、製品を多様化するコストが低下し、店舗の棚にじつにさまざまなブランド、種類、モデル、サイズ、材料の製品が並ぶようになった。

要するにカスタム化のコストが低下してゼロに近づいており、消費者が個性を重視するようになっているので、画一性への流れが逆転し、多様化の流れが中心になるだろう。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・下(P307)」講談社)

大量生産の社会では、生活も9時5時に決められ、一斉に出社し、一斉に帰宅するという習慣になる。ところが、仕事が多様化すれば、人々の生活も多様化する。
要するに、新たな富の体制では、ペースが加速しているだけでなく、時間との関係で不規則性が強まっているのである。その結果、工業時代に作られた牢獄のような硬直性と規則性から個人が解放されている。だが同時に予測不可能性が高まり、人間関係と富の創出を調整する方法、仕事を進めていく方法を、根本から変えなくければならなくなる。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・上(P123)」講談社)
当然、家族で一緒に食事する時間も取れなくなるし、ますます、個人の趣味を他人に合わせる必要性がなくなる。佐々木氏は、「電子書籍の衝撃」の中で、「マス感性」について語っている。
最大の原因は、「みんなでひとつの感性を共有する」という「マス感性」の記号消費自体が疲労し、行き詰ってしまったことです。

90年代の終わりというこの時代は、日本社会にとっては大きな転換期でした。高度経済成長をベースにした戦後の総中流社会が、長引く不況によって崩壊し、これ以降日本社会は格差社会への道をまっしぐらに走っていきます。

「サラリーマンと専業主婦、それに子ども4人」といったかつての標準家庭が少数派に転落し、単身家庭が増え、都市と地方の文化は別の進化を遂げるようになり、そして貧富の差も拡大していきます。

こういう事態が進行していく中で、「みんなと同じものを買う」というようなマス感性モデルが存続できるわけがありません。

従来のような「モノで自己実現する」「モノで自分を語る」といった思考が消滅していったのが、2000年代に起きた日本の精神風景の大きな変化なのです。

マスメディアが垂れ流す商品の記号は神通力を失い、お仕着せのイメージ、お仕着せの記号に誰もついていかなくなりました。(佐々木俊尚著「電子書籍の衝撃 本はいかに崩壊し、いかに復活するか?」ディスカヴァー携書)(流行語から明確になる「マス感性の消失」)

「富の未来」でも、共通の常識が失われるだろうと書いている。
革命的な経済では、多数の製品やサービスがマス・カスタム化を超えて、完全に個人化される。つまり、多様性がさらに高まる。職と仕事でも、時間と場所が多様になる。これらの変化と平行して、家族の形態も多様になる。子どもは育つ環境がそれぞれ違うので、共通点が少なくなって個性的になる。

これらの変化から、工業社会が大規模化を特徴としたのに対し、今後は非マス化が進み、支配層や他の誰かが常識を作り上げるのはむずかしくなっていくだろう。こうした状況では、常識は、真実かどうかを見分ける基準としての効力をある程度失う可能性が高い。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・上(P265)」講談社)

マスメディアが作り上げる共通常識は、個人の関心のほんの一部になり、他人と話題を分け合う時代ではなくなりつつある。流行語から明確になる「マス感性の消失」でも述べたように、どんどんマスメディアの領域が侵害されていく。この時代の子どもたちは、
教師は生徒を教室に閉じ込めているのだが、生徒の耳、目、心はサイバー・スペースをさまよっているような状況にあるのだ。子どもは小さなときから、インターネットで得られるデータ、情報、知識、そして娯楽にくらべれば、学校で教えられることはごくごく少ない事実に気づいている。教室では囚人だが、インターネットでは自由である事を知っている。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・下(P297)」講談社)
教育はもちろん、マスメディアも含めて、医療・年金などあらゆる制度は、破綻しつつある。すべてが第二の波の時代に作られた遺物なのである。(日本はどこで道を間違えたか参照)
新しい文明が古い文明を侵食する時期には、二つをくらべる動きが起こるのは避けがたい。過去の文明で有利な立場にあった人や、うまく順応してきた人がノスタルジア軍団を作り、過去を賞賛するか美化し、まだ十分に理解できない将来、不完全な将来との違いをいいたてる。

 見慣れた社会の消滅で打撃を受け、変化のあまりの速さに未来の衝撃を受けて、何百万、何千万の欧米人が工業経済の名残が消えていくのを嘆いている。

 職の不安に脅え、アジアの勃興に脅えているうえ、とくに若者は映画、テレビ、ゲーム、インターネットで暗黒の未来のイメージにたえず接している。メディアが作り上げ、若者の憧れの的とされている「スター」は、街角のチンピラや傍若無人な歌手、禁止薬物を使うスポーツ選手などだ。宗教家からはこの世の終わりが近いと聞かされている。そしてかつては進歩的だった環境運動がいまでは大勢力になり、破局の予言をふりまいて、「ノーといおう」と繰り返し呼びかけている。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・下(P332)」講談社)

追記 今回のエントリーは、「マスはなぜ消滅しなければならないか」について話してみたい。→今回のエントリーは、トフラーの「富の未来」を使って「マスはなぜ消滅しなければならないか」について話してみたい。に訂正
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