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素人だから言えることもある

ブログ・ジャーナリズムは誕生するか(2)

パブリックジャーナリストとブログ・ジャーナリズム

今回のエントリーは、ブログ・ジャーナリズムは誕生するかの続編。翼では、現在、片岡麻実氏の「パブリックジャーナリストはブロガーズネットワーク翼でよみがえるのか」について、議論されているが、そもそも「パブリックジャーナリスト」とは、片岡氏によれば、
パブリックジャーナリスト(PJ)は市民ジャーナリストの意味
であるという。いわゆるマスメディアに対抗できるネットメディアのニュースジャーナリストを目指して様々なメディアが台頭し、消えていった。マスメディアに比べ、インフラ整備がいらないので、参加しやすいが存続も難しいのだ。

今回のエントリーのタイトル「ブログ・ジャーナリズム」も湯川鶴章氏の著書、「ブログ・ジャーナリズム—300万人のメディア」のタイトルからとっている。湯川氏も、自ら「Teck Wave」を運営している。湯川氏は、

TechWaveを支援してくださる人たちと何度も議論してみました。多くの人が「現状を変えたい」という思いを持っていることが分かりました。「時代にそぐわなくなった古い体質、体制を変えたい」「既得権者だけが優遇され、若者が割をくう社会を変えたい」「レガシージャパンをぶっ壊したい」などという意見がありました。わたし自身も同じような思いで活動を続けてきたことが分かりました。やはり同じ思いを持っているからこそ、みんながTechWaveを核に集まり出したのだと思います。

そうした思いを1つのミッションステートメントにまとめることにしました。それが「テクノロジーで閉塞感を打ち破れ」です。(TechWaveについて)

閉塞した自分たちの環境をメディアを通して壊したい。その思いが、このようなネットメディアが台頭した理由であろう。一方、一斉に増えたために、内容が玉石混淆になり、ますます信頼性が危うくなる面も増えてくる。かつてのマスメディアのスクープ合戦による内容の劣化が問題になったようなものである。僕は、ネットメディアがわざわざマスメディアと同じようなスタンスに立つ必要はないと思う。

取材しないジャーナリストがいてもいいじゃないか

片岡氏は、
パブリックジャーナリストとして事実を客観的な視点から正確に伝え、事実と意見を分けて書くのは高いスキルが必要だったのではないかと感じています。
私はオピニオンに投稿してばかりでしたが、本来は自分で取材をして独自情報が記載されたものでないとパブリックジャーナリストとして適切な記事と言えないのではないかと現在、考えています。(パブリックジャーナリストはブロガーズネットワーク翼でよみがえるのか)
という。だが、取材をするというのは、結構、時間とカネがかかるものだ。当事者に会いに行く交通費、宿泊費、電話代、資料代、マスメディアならこれらの費用は出してくれる。個人で取材するとなると、自分の周辺に限られる。そうなると、テーマが広がらなくなる。

また、取材方法もマスメディアなら先輩から伝授されるだろうし、記者クラブという特権もある。個人で動くとなると、すべて独学だ。片岡氏の言うように、マスメディアと対抗できるようなパブリックジャーナリストは夢のまた夢となってしまう。佐々木俊尚氏は、「ブログ論壇の誕生」でこんなことを書いている。

記事というコンテンツは、「一次情報」と「論考・分析」という二つの要素によって成り立っている。新聞社は膨大な数の専門記者を擁し、記者クラブ制度を利用して権力の内部に入り込むことによって、一次情報を得るという取材力の部分では卓越した力を発揮してきた。だがその一次情報をもとに組み立てる論考・分析は、旧来の価値観に基づいたステレオタイプな切り口の域を出ていない。たとえばライブドア事件に対しては「マネーゲームに狂奔するヒルズ族」ととらえ、格差社会に対しては「額に汗して働く者が報われなければならない」と訴えるような、牧歌的な世界観である。

このようなステレオタイプ的な切り口は、インターネットのフラットな言論空間で鍛えられてきた若いブロガーから見れば、失笑の対象以外の何者でもない。彼らは新聞社のような取材力は皆無で、一次情報を自力で得る手段を持っていないが、しかし論考・分析の能力はきわめて高い。ライブドア事件にしろ格差社会問題にしろ、あるいはボクシングの亀田問題にしろ、読む側が「なるほど、こんな考え方があったのか!」と感嘆してしまうような斬新なアプローチで世界を切り取っている。

今の日本の新聞社に、こうした分析力は乏しい。論考・分析の要素に限って言えば、いまやブログが新聞を凌駕してしまっている。新聞側が「しょせんブロガーなんて取材していないじゃないか。われわれの一次情報を再利用して持論を書いているだけだ」と批判するのは自由だが、新聞社側がこの「持論」部分で劣化してしまっていることに気づかないでいる。ブロガーが取材をしていないのと同じように、新聞社の側は論考を深める作業ができていないのだ。(佐々木俊尚著「ブログ論壇の誕生」文春新書)(読売新聞「新聞が必要 90%」の謎)

また、湯川氏も、
それでも次のようなコメントが寄せられることがある。「足で情報をとってこなければジャーナリズムではない」「新聞記事を論評する程度のことはジャーナリズムではない」などといったコメントだ。別の言い方をすれば、「ジャーナリストは人のとってきた情報について、ああだこうだ言うのではなく、自分の足で人に直接会って情報をとってくるべきだ」ということになる。
つまり、職業的にはフリーだけでなくアマチュアまで含めてもいいが、自分で取材しなければジャーナリズムではないという考え方だ。


ただ、そう考える人は少数派で、多くの人は「プロのジャーナリストの中にもあまり取材せずに評論を活動の中心にしている人もいるので、評論だけのブログもジャーナリズムと認めてもいいのではないか」と認識している。(湯川鶴章著「ブログがジャーナリズムを変える」NTT出版)(ブログ・ジャーナリズムは誕生するか)

誰もがジャーナリストになりうる

取材し、当事者に会い、コメントをとって報道する。もし、ネットメディアもそれが当たり前になった瞬間、マスメディアの圧倒的な取材力の前に立ち向かうことすら許されないだろう。そこで、ジャーナリズムとは何かを考えなおす必要がある。「ジャーナリズムはマス・メディアの特権ではない(マス消滅元年・6) 」で、新井直之氏の言葉を引用した。
いま伝えなければならないことを、いま、伝える。いま言わなければならないことを、いま、言う。「伝える」とは、いわば報道の活動であり、「言う」とは、論評の活動である。それだけが、おそらくジャーナリズムのほとんど唯一の責務である。それ以外の、たとえば娯楽や広告媒体としての活動は、マス・メディア一般の活動分野ではあるにしても、ジャーナリズムにとっては付随的なものでしかないのだ。


そこでは、継続性、定期性ということはもはやほとんど重要ではなくなってくる。いま伝えなければならないことを、いま、伝え、いま声をあげなければならないことを、いま、声を上げて言う、ということでありさえすれば、それがただ一回限りの行為であったとしても、それは十分にジャーナリストとしての活動と言い得るであろう。必要なのは、いま、伝えねばならぬこと、いま言わねばならぬことを、勇気を持って一刻も早く広めることだ。したがって、ジャーナリズムの活動は、あらゆる人がなし得る。ただ、その活動を、日々行ない続けるものが、専門的ジャーナリストといわれるだけなのである。そして言うまでもないが、それはペンを持つ人間だけを指すわけではない。カメラを持っても、マイクを握っても、みなジャーナリストたり得るのである。(新井直之「ジャーナリストの任務と役割」p26『マス・メディアの現在』[法学セミナー増刊総合特集シリーズ三五]日本評論社

この文章でいう、「伝える」が一次情報、「言う」が論評とすれば、論評だけもまたジャーナリズムなのだ。さらに国民の「知る権利」はすべての国民に与えられた権利であり、マスメディアのみの特権ではないことを語る。
したがって「知る権利」は、国民の一人ひとりがみな持っている権利なのであり、ジャーナリズムはその権利にのっとり、その権利の行使として、行為しているのである。だからジャーナリズムおよびジャーナリストは、第一義的に民衆に奉仕する責務を持つ。権力(あらゆる意味の)代弁を勤めるジャーナリズムは、ジャーナリズムと呼ばれる資格を持たない。また、ジャーナリストが持っている権利は、民衆一人がひとりが持っている「知る権利」とまったく同等なのであって、それ以上でもなければ、それ以下でもない。なんらの特権も持っていない。しかし実際には、職業的ジャーナリストは、記者クラブにも最も代表的に示されるように、ニュース・ソースへの接近などで特権的地位を与えられている。だがそれは、民衆の「知る権利」の代表として得たのでしかない。しかし、ジャーナリストは往々にしてそれを自覚しないか、あるいは忘れる。基本的には民衆が持つ権利以上の特権を持たず、しかし実際には特権的ポジションにいる−その矛盾を自覚した緊張感を絶えず持ち続けることが、ジャーナリズムに要請される。(新井直之「ジャーナリストの任務と役割」p26-27『マス・メディアの現在』[法学セミナー増刊総合特集シリーズ三五]日本評論社
この文章は、ネットメディアが登場するなんて考えられもしなかった1986年の記事である。私たちは、ジャーナリズムとはこういうものだと、マスメディアによってゆがめられてきたことを感じなければならない。そして、パブリックジャーナリストのあり方も、マスメディアの真似をすることではない形に進むことを真に願う。
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