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素人だから言えることもある

「楽観バイアス」と黒澤明「生きものの記録」

ためしてガッテン!の「楽観バイアス」

年末から新年にわたってWOWOWで黒澤明の全作品30本が放送される。夏にも放送されて何本か録画した。その中で12月30日に放送される「生きものの記録」をとりあげてみたい。この作品は、黒澤作品でも無名に近くほとんど知られていない。しかし、前項「強いアメリカと強い日本」で取り上げた脱原発はなぜ選挙の争点にならなかったかにも共通する部分があったのだ。さらに、昨日放送された、ためしてガッテン!のこれだ!快感防災テクで取り上げられた「楽観バイアス」の話もヒントとなった。「楽観バイアス」とは、
「人間は自分の命を脅かす」情報を与えられても、身を守る行動には繋がらないということ。これには「楽観バイアス」という人間特有の心の作用が影響しているものと考えられます。人間は自らの行動性を高めるために、自分が死ぬ姿をうまく想像することができない特性を持っており、そのために地震の被害の情報を与えられても、それを自分のこととして、うまく認識できないのです。怖い映像を見た直後は対策の必要性を感じても、数日後には、その意識が薄まってしまうのは、この心理の影響と考えられます。(ショック!怖い思いをしても地震対策が進まない)
人間はこの楽観バイアスがないと、絶えず心配が先に立って生きていくことができなくなってしまう。この楽観バイアスのない人間を描いているのが、黒澤明の「生きものの記録」であった。

黒澤明「生きものの記録」

そのストーリーはこうである。
都内に鋳物工場を経営しかなりの財産を持つ中島喜一は、妻とよとの間に、よし、一郎、二郎、すえの二男二女がある、ほか二人の妾とその子供、それにもう一人の妾腹の子の月々の面倒までみている。その喜一は原水爆弾とその放射能に対して被害妾想に陥り、地球上で安全な土地はもはや南米しかないとして近親者全員のブラジル移住を計画、全財産を抛ってもそれを断行しようとしていた

一郎たちはこの際喜一を放置しておいたら、本人の喜一だけでなく近親者全部の生活も破壊されるおそれがあるとして、家庭裁判所に対し、家族一同によって喜一を準禁治産者とする申立てを申請した。家庭裁判所参与員の歯科医原田は「死ぬのはやむをえん、だが殺されるのはいやだ」という喜一の言葉に強く心をうたれるのだった。

その後もブラジル行きの計画を実行していく喜一に慌てた息子たちの申請により、予定より早く第二回の裁判が開かれた。その結果、申立人側の要求通り喜一の準禁治産を認めることになった。喜一の計画は、この裁定にあって挫折してしまった。

極度の神経衰弱と疲労で喜一は昏倒した。近親者の間では万一の場合を考えて、中島家の財産をめぐる暗闘が始まった。その夜半、意識を回復した喜一は工場さえなければ皆も一緒にブラジルへ行ってくれると考え、工場に火を放った。灰燼に帰した工場の焼け跡に立った彼の髪の毛は一晩の中に真白になっていた。

数日後、精神病院に収容された喜一を原田が見舞いに行くと、彼は見ちがえるほど澄み切った明るい顔で鉄格子の病室に坐っていた。地球を脱出して安全な病室に逃れたと思い込んでいる喜一を前にして原田は言葉もなく立ちつくすのであった。彼の気が狂っているのか、それとも恐ろしい原水爆の製造に狂奔する現代の世界が狂っているのか。(KINENOTE『生きものの記録』)

この主人公中島喜一を演じるのは三船敏郎、歯科医の原田を演じるのは志村喬である。広島・長崎に原爆が投下されて10年後の1955年に製作されている。生きものの記録のWikipediaの評価にこう書いてある。
この映画のみどころは、三船敏郎演ずる老人が日本の状況に危機感を持ち行動を起こすが、日常の生活を優先する家族に締め上げられ次第に狂っていく綿密な描写にある。

『あらかじめ分かっている問題にどうして対処しようとしないのか』というのがテーマとなっている。映画監督の大島渚は鉄棒で頭を殴られたような衝撃を受けたとしており、徳川夢声は、黒澤に対して「この映画を撮ったんだから、君はもういつ死んでもいいよ」と激賞したという。また映画評論家の佐藤忠男は「黒澤作品の中でも問題作」と述べている。

しかし、脚本家の橋本忍の回想によると「生きる」「七人の侍」の大ヒットに続いた作品にもかかわらず、記録的な不入りで興行失敗に終わった。その原因を、脚本作りのミスと、原爆という扱いづらいテーマを取り扱ってしまったことによる、と橋本は分析している。

鈴木敏夫は本作について「震災後に改めて観ると、以前にくらべて「受け取る印象がこうも違うのか」と思いましたし、すごくリアリティがあった。黒澤っていう人は面白いなと、つくづく思いましたね。」「今観ると言いたいこともはっきりしているからすごくリアリティがあって。多くの人に、今観てほしい作品です。」「黒澤監督は、関東大震災を目の当たりにしているそうなんですね。たくさんの瓦礫と人の死が自分の記憶の底に残った、と著書に書いていて、そういう意味でも戦争や核の問題に対して敏感だったんでしょう。昔観たときは、『生きものの記録』はむしろ「喜劇映画かよ」っていう印象でしたが、震災を経ることによって、黒澤監督が作品に込めた考えが、やっと伝わってきたような気がしています。」と日本映画専門チャンネルでの岩井俊二との対談で述べている。(生きものの記録-Wikipedia)

『あらかじめ分かっている問題にどうして対処しようとしないのか』というテーマこそが、「楽観バイアス」そのもののことだった。

今回の投票で危機感を持って「脱原発」を考えていたなら、今回のような投票結果は出なかったかもしれない。自分にはこんな事故は起こらないという「楽観バイアス」が投票行動に結びついた可能性があるからだ。一方で、「楽観バイアス」が動かなかったら、世の中はもっと暗くなっているし、中島喜一は世間に不安を広める終末教の教祖になっていただろう。

さらに広く考えれば、原水爆製造者たちに自分は大丈夫という「楽観バイアス」があったからこそ作れたのだろうし、銃の製造にも「楽観バイアス」があるから作れたのだと思う。ともかく「楽観バイアス」は人間の生死に大きな影を落としている。
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