夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

青春とはなんだ?(異文化文献録)

 青春時代が夢なんて、後からほのぼの思うもの 青春時代のまんなかは道に迷っているばかり…(阿久悠作詞「青春時代」)青春時代、楽しんでますか? でも、「青春」って何で「青い春」と書くのだろうか。そんなことを調べてみることにした。

 まず、「青春」の「青」。もちろん、「青い海」、「青い空」の色をさす「青」だ。漢字というのは、ご存知の通り中国からの贈り物。中国漢民族の字「漢字」という訳だ。だから、当然古代日本では「青」の漢字はなかった。でも「あお」という言葉はあったんだ。漢字には音読み、訓読みの二つがある。音読みは漢字本来の読み方、つまり中国語読みで、訓読みは日本古来の読み方が当てはめてある。「青」の場合、音読みは「セイ」で訓読みは「あお」だ。それなら「あお」は現在と同じ「青い海」、「青い空」の「あお」だろうか。ところが違う。古代日本語には色に関する言葉がなかった。ただ、光の明暗濃淡を表す言葉があるだけだ。その言葉は「明(あ)かし、暗(くら)し、顕(しる)し、漠(あお)し」で、赤黒白青に変化したというのである。(森田良行「日本語をみがく小辞典(名詞編)」)。

 赤は明白で完全なさまのことで「真っ赤なうそ」などの例もある。また「赤ん坊」は、何も身に付けていない完全なという意味から来ている。「青」は赤、白、黒の間の中間色のことで、漠然とした未熟なという意味だ。「青臭い」・「青二才」・「青春」もこの意味である。なお白は明瞭で紛れもない状態のことで「潔白」の白はこの意味だ。このように日本語では色彩そのものよりも、より広い精神的分野に広がっていることがわかる。青春に色がついているのがおかしいのではなく、もともと「青」という言葉を色彩のひとつとして借りた言葉なのである。色彩心理学という学問が注目されているが、日本では言葉のはじめより心理と色が結びついていたのだ。

 それでは「春」はどうか。それは新井白石が「草木の芽が張るときであるからはるという」といっている。つまり陽気がよくなって草花が生き生きと元気に張り切って萌え出るために春というのだ。(日置昌一ことばの辞典」講談社)

 農耕文化の日本人は季節の変化に敏感である。温帯に属する日本は四季の変化が激しく、稲を植える時期を遅らすと、それがそのまま秋の収穫に影響するからだ。(樋口清之自然と日本人」)例えは「夏」の語源は、稲の「成り立つ」がつまったものであるし、「秋」は穀物が飽きるほど実ることから出たものという(日置昌一ことばの辞典」講談社。なお「冬」の語源は冷ゆるからきた)。したがって、日本人は自然と調和していく思想が身につき、人生や人体にあてはめていったのである。その自然がいわゆる「気」で、病気になるとは自然と人体のバランスが狂っていると考えた。その頃、中国の自然哲学に五行思想というのがあった。これは自然の要素が「木火土金水」であるとして、季節(春・夏・土用・秋・冬)や色(青・赤・黄・白・黒)などにそれぞれ対応させたものだ。自然を根本とする日本人には受け入れやすく、この五行思想を人の一生に重ねてみれば、一番初めに色の「青」と季節の「春」が浮かび上がる。(加藤道理「現代に生きる漢語東洋書店)。すなわち「青春」とは、未熟ではあるが生き生きして張り切っている年代となる。青春は自分を未熟と思い、一生(所)懸命努力することではないか。もしこれで満足だと思えば、その時老いが始まる。

人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる

人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる

希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる

(宮澤次郎著「感動の詩賦「青春」(竹井出版より岡田義夫訳・サムエル・ウルマン「青春」を抜粋)


追記

この ( 異文化文献録 ) のシリーズは、 20 年近く前にあるタブロイド紙で連載したコラムである。これは、僕の文章スタイルの原点でもある。引用文と地の文が明確でないし、ネット・メディアとはあまり関係ないと思われるかもしれない。だが、メディアは現代文化のひとつの様相であり、文献をつないで現代日本人を探る姿勢は変わらない。自分のデータベースとしては、このシリーズを載せないでは中途半端だと思っている
ブログパーツ