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素人だから言えることもある

日本の正体(異文化文献録)

 欧米人は、日本人の性格は謎だらけだと考える。(ジーラ・ジョンソン「アメリカ人の日本人観」サイマル出版会)心優しい民族だと思っても意外に残酷であったり、イエスといいながらノーだったり、まるで男を焦らす気まぐれな女のようだ。今回は「日本の正体」に迫ってみた。

 欧米人と日本人の性格を比べると、欧米人は合理的・論理的・対立的・個人的・攻撃的であり、日本人は非合理的・情緒的・協調的・集団的・防衛的である。一つの人格であれば、欧米人は「男性型社会」であり、日本人は「女性型社会」ということになる。(河合隼雄氏は「父性社会」「母性社会」と呼んでいる。(河合隼雄母性社会日本の病理」講談社プラスアルファ文庫)

 「男性型社会」の特徴は、物事を二つに分けて白黒をはっきりさせるということであり、「女性型社会」の特徴ははっきりさせずに包み込むということだ。しかし、「男尊女卑社会」といわれる日本がなぜこのような女性的特質を持っているのだろうか。

 「男性型社会」は、絶えず異民族との戦争に明け暮れてきた。彼らの舞台は戦場である。戦場では、自分を守るものは自分しかいない。しかし、自分の人生を切り開くのも自分の能力しかない。この論理は、平和時も変わらない。自由も、個人主義も、民主主義も、女性の権利も戦って勝ち取ることから生まれてきた。「女性は弱い」という幻想は、「男性型社会」の強者の論理から生まれたものだが、「女性の権利」の獲得もやはり女性たちの間に根づいた「男性的思考」から生まれたものだ。(ホーン川嶋遥子「女達が変えるアメリカ岩波新書

 戦場では、自立しない人間は生きていくことができない。したがって「男性型社会」では、幼いうちから家庭で厳しく自立精神をたたき込む。

 一方、「女性型社会」の舞台は家庭である。家庭の延長が会社であり、村であり、国家である。終身雇用制や年功序列制は、この家庭の論理から生まれたものだ。「家庭(会社)」に属さないものは半人前であり、社会への参加を制限された。儒教が中国から、渡ってきたとき女性たちに「男は強くなければ」という幻想を植えつけた。しかし、現実は男たちは権威の上にあぐらをかき、実質的な力を持っていたのは女性たちであった。

 「女性型社会」では、厳しいしつけは「奉公先」や「若衆宿」など外でなされた。庶民は貧しい生活のために、子供を幼いときから外で働かせた。「他人と同じ釜の飯」を食った、子供を暖かく迎え入れるのが家庭であった。(木村尚三郎「家族の時代」新潮選書)

 「女性型社会」日本は、幕末に「男性型社会」と初めてふれた。「箱入り娘」であった日本が、一段優れた欧米文化にふれて一目ぼれしたのは無理もない。日本は、明治時代、欧米と「デート」を始めた。(鯖田豊之「日本を見なおす講談社現代新書)「女性型社会」は、外国から文化を取り入れても、すべて自己流に変えて消化してしまうという特徴がある。この変化への対応の「しなやかさ」と「したたかさ」は敗戦からの回復の早さや現代日本の底力でわかる。

 「女性型社会」では、「男性型社会」ほど戦争慣れしていない。物力がないのに、「精神力」のみで戦おうとしたのは急激な文化の混入が生み出した「ヒステリー状態」というしかない。

 戦後、日本の敗北によって「男性的な権威」は失墜し、欧米と日本はますます密接な「同棲」期を迎えた。そして個人主義が入ったが、日本の家庭には「自立した個人」を育てる厳しいしつけの根がないため、利己主義と区別できてない。(日比野省三「殻型人間核型人間」NESCO)また「男性型社会」も離婚率が高く家庭の崩壊が叫ばれている。

 これから日本は「結婚」期に向かう。結婚とは、「女性型社会」を男性化することではない。お互いの特性を尊重しながら、補い合うことなのだ。日本の国際化とは、実は「結婚」のための花嫁修業のことなのである。


追記

この ( 異文化文献録 ) のシリーズは、 20 年近く前にあるタブロイド紙で連載したコラムである。これは、僕の文章スタイルの原点でもある。引用文と地の文が明確でないし、ネット・メディアとはあまり関係ないと思われるかもしれない。だが、メディアは現代文化のひとつの様相であり、文献をつないで現代日本人を探る姿勢は変わらない。自分のデータベースとしては、このシリーズを載せないでは中途半端だと思っている
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