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素人だから言えることもある

「耕す文化」と「種まき文化」(異文化文献録)

「文化」という言葉くらい、わかったようでわからない言葉もない。あまりに幅広すぎて、漠然としているからだ。僕は「文化」とは「人間に関するすべて」だと考える。人間が生み出した「思想、道具、言葉」は、国により土地により当然異なる。それならば「文化」の概念も東西の違いがあるはずだ。今回は「文化」という言葉を探ってみた。

 「文化」の「文」は、着物の襟元の形から生まれた。美しい襟元より「礼儀」や「文字」が生まれ「文学」「学問」の意味を含むようになった。「化」の「イ(にんべん)」は人の形、「匕」は転倒した人の形である。このように「化」の字の中に人が変化するという意味がある(山田勝美漢字の語源 」角川書店)。中国語の「文化」は本来、学問や礼儀などで武力によらずに人を教化(教え導く)するという意味であった(中田浩一「漢字語源誠文堂新光社)。この「文化」が日本に来てなぜ英語の「CULTURE」の訳語になったかは不明であるが、「文化」の言葉の底に「他から教えられる」という意味があることがわかる。

 さて「CULTURE」の語源は「耕す」である。耕す土地は、環境により場所により様々だ。農作物も違えば、それに伴い風俗習慣も違ってくる(木村尚三郎「耕す文化の時代ダイヤモンド社)。これが「CULTURE」の意味であり、その底には、「自分の土地から生み出す」という思いが含まれている。

 「日本人は、いつも思想は外からくるものだと思っている」(司馬遼太郎この国のかたち文芸春秋社)。この「思想」を「文化」に換えても納得がいく。「独創的な文明は、日本よりも外国で作られる可能性が大きいから、それを取り入れる方が能率的だ。中国に儒教があれば儒教をもってくる。インドに仏教があればそれをもってくる。ヨーロッパに科学技術があればそれを持ってくる。これが一番よいやり方だと考えた」(梅原猛日本文化論講談社学術文庫

 僕は「CULTURE」の「耕す文化」に対して、この考え方を「種まき文化」と名づけた。風に運ばれる種のように、「文化」も海外から運ばれるからだ。「耕す文化」が限られた土地から「引き出す」文化なのに対し、「種まき文化」は外国から「与えられる」文化だ。与えられる文化には限界がない。この考え方は「文化」を後世に伝える方法(教育観)にまで及ぶ。

 「日本とアメリカの間には大きな違いがある。アメリカでは、生まれ育った才能は一定の量に定まっていると考える。ところが日本人は、能力に到達点があるとは思っていない。限界があることを認めないんだ」(R.ホワイティング「和をもって日本となす」角川書店)

 「種まき文化」は、実は外国の「耕す文化」の上に乗っているに過ぎない。日本にも独自の「耕す文化」がある。豊かな「耕す文化」を外国と流通しあってこそ、「種まき文化」が成り立つ。一方的な「文化」の輸入超過は、結局自分たちの「文化」の耕し方を忘れて、「日本文化」を破壊しているのではないだろうか。


追記

この ( 異文化文献録 ) のシリーズは、 20 年近く前にあるタブロイド紙で連載したコラムである。これは、僕の文章スタイルの原点でもある。引用文と地の文が明確でないし、ネット・メディアとはあまり関係ないと思われるかもしれない。だが、メディアは現代文化のひとつの様相であり、文献をつないで現代日本人を探る姿勢は変わらない。自分のデータベースとしては、このシリーズを載せないでは中途半端だと思っている
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