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素人だから言えることもある

読者が賢くなると、マスコミがバカに見えてくる(マス消滅元年・3)

前項「マスから個人への動きは世界規模で起こっている(マス消滅元年・2) 」の最後に、新聞を比較する話を書いた。かつては、新聞を何紙も取る読者は、専門家を除いて大変少なかった。だが、インターネットによって、新聞の比較ができるようになった。すると、新聞の想定する読者がひどく表面的なのに気がつく。「2011年は「マス消滅元年」になるか」で引用した

教師は生徒を教室に閉じ込めているのだが、生徒の耳、目、心はサイバー・スペースをさまよっているような状況にあるのだ。子どもは小さなときから、インターネットで得られるデータ、情報、知識、そして娯楽にくらべれば、学校で教えられることはごくごく少ない事実に気づいている。教室では囚人だが、インターネットでは自由である事を知っている。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・下(P297)」講談社)
の「学校で教えられること」を新聞と言い換えれば、わかってくる。新聞があまりにもネットのニュースに比べ、内容が少ないからだ。教科書が文科省選定の国家管理のもとの教科書であるから、当然インターネット情報より少ないのは分かっている。だが、マスコミも記者クラブと言うフィルタリングを通した独占企業である。そんなことはないという人もいるかもしれない。だが、普通の人は、何紙もとってないし、何紙も取る経済的余裕もない。「残らないブログより残るブログを(知識を伝える・3)」 で引用した
誰もが発言できるということは誰も発言する権利を独占していないことだ。市場に例えれば、旧来のジャーナリズムは独占市場で、ブログは競争市場だ。なぜ新聞社がネットに対応できないのか。それは独占企業にとっての最適戦略は競争的な市場では機能しないからだ。(なぜ誰もあなたのブログを読んでくれないか
マスコミはなぜ独占企業なのか。それは、政治とどこかで繫がっているからだ。もし、どこまでも政治と対抗するなら、そのマスコミは存在できないだろう。

最近の例で言えば、ウィキリークスの外交文書が公開されたとき、ニューヨークタイムズが政府にお伺いを立てたという例があった。また、尖閣諸島の流出事故のとき、マスコミに流しても、どのマスコミも自らの責任を取ろうとせず、無視されるだろうといわれている。たまたま、YouTubeに流されたからこそ、全放送局で報道されたのだ。つまり、マスコミはどこかで政治に尻尾を握られている。だから、独占企業としてやっていられるわけだ。

やがて、ネット情報も管理されるときが来るかもしれない。現在は、マスコミはネット情報に触れていない層向けに何とかやっているが、ほとんどの層がネットに触れていくと、無料の情報と比較する時代がやってくる。そうなると、ネット情報よりももっと深い、とんがった情報を扱わない限り、生き延びられない時代がやってくる。マスコミが、我々素人とは比較にならない「プロの味」を出して、なるほど、これなら金を出してもいいといわせる記事であれば別だが。
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