「見えないから安心」と「見えたから不安」
このタイトルはおかしいという人もいるかもしれない。普通は、「見えるから安心」であり、「見えないから不安」なのだ。でも、放射能測定で各地に数値が明らかになると、ここは数値が少ないから安心というだろうか。むしろ、数値を知らなかったころが安心だと思ったのではないか。
最近、新聞で「サイバー攻撃」なる言葉が躍った。サイバー攻撃という報道によって人々はその事実を知り、不安を持つのだ。発表しなければ、不安が起こるはずもない。僕は、この言葉と放射能問題が似ていると思った。どちらも、姿が見えないということだ。関東各地でも放射能の濃度が高いホットスポットが見つかっているが、これなどは、原発問題が起こらなければ、誰もガイガーカウンターなどを持つこともなかったし、いくら放射能線量が高くても誰も知らないから気にすることはなかったはずだ。見えないのが当たり前だったものが、急に身近に表れることから、不安に感じるのである
見えないために、言い換えれば、知らされないために、安心だと思ってきたことが見えてきたためにかえって不安を増幅するという現実が起こったのである。普通は、「見えないから不安」とはいうが、現在起こっているのは「見えたから不安」ということである。中国国内の報道などは、政府の都合の悪いことは隠してきた。ところが、インターネットがはやり、簡単に隠すことができないと、政府がやってることは嘘ばかりじゃないかということになる。国民が政府を信用しなくなる。日本でも同じようなことが起きている。長年の自民党政治で隠していたものが、民主党に変わってそのボロがあらわになる。人々は、このことで、民主党が政治を浄化したというだろうか。むしろ、自民党時代は、民主党に比べて政府が信用できた。民主党になって、不安が増えてきたではないかというのだ。
すべてを明らかにするというが、すべてがどれほどの量であるかは知らないので、これがすべてだと言われても信用できない。ものを知れば知るほど、安心できなくなる。それが人間のさがである。