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素人だから言えることもある

安心が信頼を破壊する(「見えないから安心」と「見えたから不安」・6)

コミュニティから逃れられない日本人

なぜ日本人は説明がヘタか(「見えないから安心」と「見えたから不安」・4) 」や「なぜ、日本人は寅さんにあこがれたか(「見えないから安心」と「見えたから不安」・5) 」で学んだのは、企業というコミュニティ内は安心なので、他のコミュニティの個人とつき合うことはほとんどない。だから、寅さんのように、自由に旅をする人間にあこがれたのだ。山田洋次氏は、
あの景気のいい高度経済成長の時代に、世の中の進歩とか変革とかその手の一切に背を向けて、定職につかず住む家もなく、年中失恋をしている情けないダメ男に、日本の中年男女が夢中になった。さあどんどん働いてお金を稼いで、洗濯機やテレビを買おうじゃないかという時代にです。寅さんのどこかに、日本人が憧れる部分があったんじゃないか。(山田洋次「侍の生きていた時代に」文藝春秋、9月臨時増刊号『和の心の日本の美』2004年9月、48頁) (浜口恵俊・金児暁嗣著「寅さんと日本人―映画「男はつらいよ」の社会心理」p12-13/知泉書館)
と語っている。

思えば、「定職につかず住む家もなく、年中失恋をしている情けないダメ男」という言葉に対して、日本の親たちが必ず言う、「働かざる者食うべからず」「男は結婚したら1人前」という言葉を思い出す。そこからは「家族というコミュニティ」「企業というコミュニティ」に所属することこそ「立派な日本人」なのだという思いがそこにある。

典型的なのは、年金制度である。厚生年金の半額は企業側が支払う。国民年金では、老後の資金には足りないので、企業に所属しなければ生活できない。だから、みんなが正社員をめざす。しかし、このことによって、コミュニティへの依存性が強くなる。

しかも、企業は就職希望者に常識的なバランスを要求する。そうなると、奇人・変人を排除せざるを得ない。奇人・変人がいると、あの人がいるのに、なぜ私だけがと比較してしまうし、そのコミュニティは、必ず騒動が巻き起こる。コミュニティのトップは、平穏に業務を遂行しようとするために、奇人・変人は入社からシャットアウトする。

果たして、それは正しいのか。確かに、寅さんは、日本人の常識に外れた奇人・変人だが、スティーブ・ジョブズ氏もまた、日本社会の常識を超えた奇人・変人なのではないのか。つまり、奇人・変人とは「仕事ができないダメな人」ではなくて、バランスを欠いてはいるが、ある特定な分野に関しては特殊な能力を持っているかもしれないということだ。したがって、そのような奇人・変人を排除する企業からは画期的なアイデアが生まれない。

「守ってやるから文句を言うな」の論理

去年を改めて、振り返ってみると、政府の発言がことごとく外れた年だった。次から次にあらわれた情報が、インターネットに流れると、それを否定するために政府が発言する。だが、しばらくたつと、それが正しかったことが明らかになる。政府は、インターネット以上の情報を持っていないことが明らかになったのだ。そうなると、政府の信用はガタ落ちになる。私たちは、なぜ政府を信用してきたのか。権威だから、専門家だから、実はそこに何の理由もなかった。社会心理学者の山岸俊男氏は、「日本の「安心」はなぜ、消えたのか」(集英社インターナショナル)のなかで、
集団主義的原理によって立つ安心社会とは、社会の仕組みがそこに暮らす人たちに「安心」を提供してくれる社会である――言い換えるならば、その中に暮らしているかぎりは、相手が信頼できるか相手をどうかを考える必要もないのが安心社会というわけです。

さて、そこでさらに確認したいのですが、ではいったいなせ安心社会では、相手が信頼できるかどうかを考える必要もないのでしょう。

それはもちろん、安心社会に暮らす人が正直者で、約束を守る人だから……ではありません。安心社会では、その人が正直者であるか、嘘つきであるかは本質的には関係ありません。


なぜならば、安心社会では、社会そのものにそこに暮らすメンバーたちに正直さや、律義さを強制するような仕組みになっているからです。つまり、彼らが正直で、約束を守るのは、もしそうしなかったら社会からペナルティを受けることが分かっているからに他ならないからで、正直者でありたいと考えて、そう振る舞っているとはかぎらないのです。(山岸俊男著「日本の「安心」はなぜ、消えたのか」p125/集英社インターナショナル)

国民は、トップに正直者であることを求めているわけではない。ウソをついたことが明らかになった時、それにふさわしいペナルティを課せと言っているのである。安心社会では、企業トップや政界トップに対して、国民と同様なペナルティが課せられると信じている。だから、総理大臣であれ、企業トップであれ、その個人の資質がその立場にふさわしい資質であることは考慮されず、国民にとってこの立場ならそんなことはしないだろうと盲目的にしたがっていた。

もっと平たく言えば、プロならプロとしての役割を果たせ、私たちはそれが正しいと思ってついて行くという関係である。立場、つまり企業ならブランドと言い換えてもいいが、このブランドの人間なら騙しはしないだろうという思い込みである。

プロだって失敗する。だが、1人の失敗がその企業のブランドを危うくする。ブランドのイメージが悪くなるということは、極端になれば風評被害となる。今回の福島原発の放射能問題。原発事故と福島県人は本来関係ないはずだが、福島県人として他県に移転すると、いかにも放射能被爆者として周りの人々は対応する。つまり、福島原発事故によって「福島」というブランドが傷つけられたのである。

そこにあるのは、日本人がそのコミュニティのブランドで判断する。名刺を渡されれば、その社員のバックについた企業名をまず頭に入れるはずだ。「東京電力」であれば、かつては誇らしげに見せびらかしていた人が、現在ではこそこそと差し出すか、名刺すら出さないように。

安心社会の限界

ソーシャルメディアの安心と信頼 (「見えないから安心」と「見えたから不安」・3) で、濱野氏のこんな言葉を引用している。
これは結局人を信頼しているんじゃなくて、場を信頼しているだけなんです。あくまで共同体全体を一括で信頼しているだけであって、アメリカ社会のように、個人をひとりずつ信頼できるかどうかを見ているわけではない。山岸さんはこれを「信頼社会」じゃなくて「安心社会」だと呼んでいます。

(中略)

山岸さんの考えでは、「たまたま日本は流動性がなくてもやっていけた社会だった」ということなんですね。終身雇用にせよそうです。たまたま安定していて、たまたま流動性が低い社会だったら、長期的な人間関係を築いてそれを信頼するだけでいいんです。でも、たまたま社会のある段階で謎の発展と複雑化を遂げた欧米社会は、信頼型社会に移行してしまった。でも「安心社会」の作法で回るんだったら、それでいいのかもしれない。これは別にどちらが本質的に優れているという話ではなくて、要は機能的な問題に過ぎないというか、うまく社会が回ればそれが一番なんですよ。

ただ山岸さんは、「日本社会もこれからグローバル化の波によって必然的に流動化していくのだとすれば、コミュニティ型の『安心社会』からソサエティ型の『信頼社会』に変わっていく必要があるし、自然とそうなっていくだろう」といった意味合いのこともおっしゃっています。

僕もそれは同感なんです。もう、終身雇用なんて時代ではないし、不可能でしょう。だから、これから日本社会もどんどん流動化していくのであれば、学校制度もガラリと変えて、小学生ぐらいからコミュニティを自由に選択するというか、ソサエティ型の人間関係に慣れていく必要があるだろうし、そちら側に自然と移行していくべきだろうと思うわけです。(濱野智史・佐々木博著/ソーシャルメディア・セミナー編/「日本的ソーシャルメディアの未来」p119-124/技術評論社

山岸俊男氏の「日本の「安心」はなぜ、消えたのか」でも、
集団主義社会に暮らす人たちにとっての最優先事項は、集団内部の安定を維持することにあります。すなわち、身内と波風を立てずに生きていくことが何よりも大切だというわけで、集団内部の人間関係を感知する能力も自然に発達していきます。また、こうした社会では他の仲間から排除されないために、なるべく控えめに行動するという行動原理が自然と身についていくことになるでしょう


これに対して、信頼社会と社会が提供する「安心」に頼るのではなく、自らの責任で、リスクを覚悟で他者と人間関係を積極的に結んでいこうという人々の集まりです

このような社会で生きて行くには、他人から裏切られたりだまされたりするリスクはつきものなのですが、そのリスクを計算に入れても、他社と協力関係を結ぶことによって得られるメリットのほうが大きいと考えるのが信頼社会の人々の発想です。(山岸俊男著「日本の「安心」はなぜ、消えたのか」p240/集英社インターナショナル)

安心社会に慣れた人は、その個人の信頼性を所属する企業のブランドで判断する。だが、それではその人個人の魅力はわからない。インターネットが普及するにつれ、様々な情報が飛び交い、不安が増加する。そうしたとき、コミュニティに閉じこもり、その安心に頼っていていいのか。僕は、奇人・変人が排除された予定調和の社会ではなくて、一人一人の個人を通じてその人が本来持つ変奇性を発揮していった方が、発展的で面白いと思うのである。
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