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素人だから言えることもある

なぜ、日本のマスメディアは裏取りが下手になったか

今回は、尼崎変死事件の犯人の写真が堂々と間違えて報道されていたのだそうだ。まあ、警察の手配写真の「おい、小池」が貼ってあるのに誰も気が付かなかった国民でもある。おそらく、正面から堂々と相手の顔を見たことがない人がそろっているようだ。だって、これを訴えたのが本人だというのだから。おそらく、その女性の周りでは、「おかしい、おかしい」と思っているに違いない。犯人は警察に捕まっているのに、ここにいるのは「他人の空似」にちがいないと。そうなると、手配写真など、何の役にも立たない。

今日のクローズアップ現代で、「なりすまし」の話があった。タイトルは、「追跡" なりすまし"社会」。解説にはこうある。

無資格にも関わらず医師になりすまし、多額の報酬を得たり、一級建築士を装い住宅の建築設計に関わったりするなど、国家資格を偽装する事件がいま全国で相次いでいる。背景にあるのは、免許証を簡単に偽造できる新たな手口や、チェックを阻む個人情報の壁、そして急速に進む人材の流動化だ。さらに“職業偽装”は、資格の必要がない仕事にもまん延。なりすましをサポートするビジネスまで誕生し、企業は職歴を偽り採用面接にやってくる人たちの対応に苦悩している。嘘をつくことに抵抗感を感じない、“なりすまし社会”の闇に迫る。(追跡" なりすまし"社会)
なんでも、法規登録してあるペーパーカンパニーを使って自由に経歴を作らせる「アリバイ会社」まであるそうだ。そういえば、医師資格のない森口氏も客員教授としてたちあったiPS細胞のあの事件も、肩書を信じたマスコミの「なりすまし」事件とみることもできる。(読売新聞「iPS細胞心筋移植」誤報の原因)

この「なりすまし」の横行と、マスコミの誤報問題、信じていたものが全く嘘っぱちだという点で共通点がある。J-CASTニュースの記事では、その原因を、

取材力の劣化とも組織疲労とも言える状況が相次ぐ中、今回の顔写真の誤使用問題について元東京大学新聞研究所教授でメディア研究者の桂敬一さんは、まず「この尼崎変死事件をマスコミが大騒ぎして取材競争している意味が私には分かりにくい。事件と社会とのつながりが見えてこないからです」と指摘する。

その上で、「『部数維持や視聴率を稼ぐために他社が騒いでるからウチも負けられない』といったマインドでの取材が、枕を並べての写真誤使用の要因になっているのでは。横並びの記者クラブの中で、他社より少し先に行こうとして次々に飛びついた挙句の失態でしょう」と話す。iPS細胞の誤報にも言及し、「組織内の身過ぎ世過ぎばかりで、自分の頭でものを考えて取材する記者が減っている状況が端的に現れている」と憂えている。(尼崎変死事件、なぜ「顔写真」間違えた 大手メディア空前の大失態)

と捉えているのだが、横並びの問題よりも、マスメディアの構造的なものだと思う。裏を取るものと取材するものが分かれ、その裏を取る人間がどんどん減っていったため、結局他社はすでに、裏を取っているのに違いないと記事をうのみにしてしまった。僕は、「マスメディアは人から腐る」でこんな言葉を引用した。
 仮説の検証の第一は、まず現場に行くことである。関係者の話を直接に取材しなければ何事も始まらないはずである。ところが、仮説を立てるものと検証する者が別々になってしまった。

 その結果、例えば、次のような過程で番組ができてしまう。

 はっきり言って、仮説を立てるだけなら現場に行くまでもない。インターネットで十分である。パソコンと向かい合ってネットサーフィンを繰り返す。おもしろそうな事柄が見つかったらコピー、ペースト、プリントアウトが溜まったら、それで仮説を書く。採択になるような文言をちりばめ企画書を書いて、提案する。大体企画を書く段階では、毎日の業務に追われて時間がないし、予算は付いていないし、現場に行って詳しく取材できない。それが口実になる。

 提案が採択になったら、下請けを選んで発注する。発注元は企画を仮説だとは言わない。仮設を定説のように示しがちだ。取材してみれば、仮説がまっとうだということが判明することもあるが、反対にとんでもないインチキと分かることもある。発注元はそれをしていない。(小出五郎著「新・仮説の検証 沈黙のジャーナリズムに告ぐ」水曜社)

スクープを連発する記者と裏を取る記者が分離していれば、誰でもスクープを取りたいと思うだろう。裏を取る仕事は地味だからである。もし、そこに上下関係があるとすれば、裏取りはいい加減になる。裏取りを厳密にすればするほど、スクープは出しづらくなるので、スクープ記者から嫌われる。メディアが巨大になればなるほど、このピラミッド体制は揺るがない。マスメディアの競争に見えているが、これは立派な官僚システムなのだ。日本のメディアがなぜ誤報の問題よりも犯人叩きが大事なのかでも引用した、
そして、これが一番重要なのですが、何をどう報道するかという肝心な問題を突き詰める前に、「デスクは許してくれないだろうな」とか、「会社の編集部はどう評価するだろうな」とか、目が社内を向いてしまっている。会社組織だから、上司の指示に従うのは当然という側面もありますが、そこに議論がない。議論する前に、自己規制してしまっている。そういう例が実に多いのではないかと推察します。要は、新聞社やテレビ局の組織が官僚組織に似た存在になってしまったのではないか。(湯川鶴章著/高田昌幸著/藤代裕之著「ブログ・ジャーナリズム—300万人のメディア」野良舎)
真実を追求するよりも、編集部の意向=仮説を立てるものに沿うように考えてしまう現実がそこにある。

また、クローズアップ現代の「追跡" なりすまし"社会」では、企業が経歴調査をしようにも、その所属していた企業から個人情報保護のために拒否されてしまうという話があった。裏取りの能力の劣化とともに、現代日本は、警察権力でないマスメディアからは裏取りがしにくい社会であることも理由の一つであろう。
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