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素人だから言えることもある

不信の時代

30代のひきこもりが70万人

NHKクローズアップ現代で、「働くのがこわい 新たな“ひきこもり” 」という番組が放送された。内容紹介によると、
“ひきこもり”の長期化、高年齢化が止まらない。去年内閣府が行った調査によると、ひきこもりの人は全国に70万人いるとも言われており、その過半数が30代を占め、しかも、就労経験や、就職試験をきっかけにひきこもった人たちだという。「ひきこもり」の人たちが社会復帰を望んでも、ひきこもっていた期間により生まれる履歴書の空白や、社会経験の不足が自立への道を阻む。社会への出口が遠のく一方で、深刻な課題は彼らを支える親の高齢化だ。親の年金を頼りに生活するひきこもりが増える今、親亡き後をどう生き残るのか、社会に出る手立てはあるのか、課題に直面しているひきこもりの今を取材する。(内容紹介)
この現象は、「無縁社会」のテーマに共通する。しかし、不況になると、おどおどした傷つきやすい心が、ちょっとした他人への不信がきっかけになって引きこもりを起こしてしまう。人間とは、なぜ、こんなにも微妙で繊細なものだろうか。

大相撲の八百長メールとジェットコースター事故が示すもの

スポーツが商売になれば、どこかで手を抜くものが現れる。もちろん、真剣勝負が当然だが、あまり注目されないところ(十両以下)から崩れやすい。

また、東京ドームシティのジェットコースター事故においても、安全管理がアルバイトに任せられていたという事実は、どこか見えない場所に手を抜いているように見える。エキスポランドのジェットコースターの事故の時、僕は、耐震偽装事件でも考えたものと共通点があることを指摘した。

建築主は「見える場所」には金をかけても、鉄筋という「見えにくい場所」には金をかけることを嫌った。そして購入者は「見える場所」のみを判断して「見えにくい場所」は見なかった。だが、乗客が「安全に命を守る」ことはあたりまえであるとして乗ったように、マンションが「地震から命を守る」のはあたりまえであるとして購入したはずである。しかし、いつの間にか「命を守る」ことが「見えにくい場所」に追いやられてしまったのだ

私たちは、「命を守る」という根本常識を再び「見える場所」に引き上げなければならないのである。それしか、本来の安全な鉄道、安全なマンションに入ることはできないのである。 ( 犯罪は入りやすい・見えにくい場所で起こる )

ディズニーランドで一番の人気はやっぱり「マウンテン」の名がつくジェットコースターである。子供が乗っても安全なジェットコースターであったはずだが、遊園地の絶叫マシン競争で安全にコストをかけられなくなったのだろうか。この見えない部分に金をかけず、見える部分にのみ金をかけるのは、人の配置にも見て取れる。本来、プロが行うべき監視や視察をアルバイトや目視で済ませたり、書類上でごまかしたりするのは、安全の軽視というしかない。(ジェットコースター事故から見える安全の不確かさ)

どこか、本来、一番に金をかけて守るべきところが、アルバイトに任せているという、丸投げの体質がそこにある。また、今回の八百長メールについても、理事長の言うように「前代未聞」というには、昔から噂になっていたのはおかしい。13人もの十両以下の力士が加わっているというのは、かなり前から日常化しているのではないか。相撲界には、専属の記者がいる。彼らが、その事実を知らなかったというのも不思議である。相撲界が暴力団の問題で揺れた時、僕は、「ジャーナリズムの試練」としてジャーナリストの上杉隆氏の文章を引用した。
記者クラブという組織を結成し、他者を排除し、四六時中力士たちと会話し、「業界人」として行動をともにし、深く親交を結んできた「相撲記者」たちが、本当に何も知らなかったのか。私にはそのことこそが信じられない。


仮に、本当に知らなかったとしたら、相撲記者たちというのは、よほど愚鈍な連中の集まりだと断言できよう。そうした愚鈍な連中の記事をもっともらしく載せたり報じたりしていたとしたら、新聞もテレビも同じように罪である。


逆に、知っていて報じなかったとしたらどうだろうか。犯罪行為を見過ごしたということになれば、法的にも「共犯関係」に当たるかもしれない。記者自身も相撲記者としてはアウトの可能性が出てくるのでないか。

日本では、これまでも記者クラブ制度の存在によって、こうした事実が明らかにならなかったことは多々あった。

それは大相撲に限らない。すべてのスポーツ、あるいはまた政治、行政、芸能、メディア、あらゆる業界でこうした「記者クラブ」のカルテルの壁によって、不正の隠蔽が行われてきたのだ。(自らの賄賂疑惑に沈黙するマスコミに、大相撲賭博を糾弾する資格はあるか)( ジャーナリズムの試練)

まさに、日本人の劣化のオンパレードである。経済学者の池田信夫氏は、「八百長は日本の伝統」と切って捨てた。
相撲の八百長が問題になっているが、「相撲界の存亡の危機」などという相撲協会のコメントに「何を今さら白々しい」と多くの人は思っているだろう。昔から週刊誌では何度も報じられたが、調査もしないで「証拠不十分」で逃げてきた。今度は警察が携帯のメールという証拠を握ったから、白を切れなくなっただけだ。

賭博罪になる野球賭博と違って、八百長は違法行為でもないし、当の関取が悪いとも思っていない。八百長や談合は、当事者にとってはwin-winゲームだからである。人間関係でも商売でも、こうした「貸し借り」でお互いに困ったとき、助けあうのが日本の美しい伝統だ。電波利権をめぐる総務省と通信業者の八百長も、構図は同じである。損するのは、談合の輪の外にいる納税者だ。(八百長は日本の伝統)

いわば、既得権者だけが手を握り合う構図がそこにあるというのだ。そう考えると、既得権者になるための就職レースに乗り損ねた人たちが、引きこもりになるというのも意外にうなづける。

「人」と「言」が違うのは当たり前

ただ、こうやって日本の不信の現状を挙げ連ねてもしょうがない。まず、引きこもりの人たちにはもっと心を強くしていかなければならない。少々、裏切られたくらいで、落ち込む必要はない。まず、「人から信頼されることが大事」という大変麗しい金科玉条を投げ捨てるべきだ。

「信用」「信頼」の「信」は人が言うと書く。人間は、信頼できると思ったら、その人の言葉と人格が一体だと思いがちだ。それは大きな間違いである。もし、同じだったら、落語家や漫才の商売は成り立たないし、詐欺は死刑にするしかない。口先だけの人間は、人間として不良品ということになってしまうからだ。もし、それが正しいとしたら、日本中は不適格者ばかりになってしまう。

したがって、その人間が信頼できるかどうかは、彼の言動よりも行動を見るしかないのだ。言葉は、その時、その時で変わる。完璧な人間など存在しないように、「不信」なのは当然と考えていくしかない。「信頼」は言動ではなく、行動である。そして、どれほど、世の中が嘘とでたらめに満ちているのかを身をもって知っていくべきだ。
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