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素人だから言えることもある

抜き書き・マイケル・サンデル 究極の選択「大震災特別講義〜私たちはどう生きるべきか〜」(1)

抜き書きとは、テレビで放送された中で、これはみんなに知ってほしいというものを論評せずに書き起こす試み。抜き書き・爆笑問題のニッポンの教養「TVはいつまで笑うのか・横澤彪」・抜き書き・「たけしの新・教育白書」〜頂上対談よりに続く、3回目。今回選んだのは、4月16日にNHKで放送されたマイケル・サンデル 究極の選択「大震災特別講義〜私たちはどう生きるべきか〜」である。YouTubeに載っているらしいが未見。僕は、録画したビデオから書き起こした。さすがに1時間15分を文章に書き起こすと、20枚を超えた。批判的に見てる人が多いが、僕はむしろ、こういう見方もあるのかと感心した。漠然と見ていても自分のものにはならない。批判で見るよりも、それぞれの言葉に学ぶことである。なお、東京・上海・ボストンのスタジオにはそれぞれ8人の学生と東京には4人のゲストが登場する。

日本人が世界に示した勇気と美徳

マイケル・サンデル 今晩は。マイケル・サンデルです。これは、日本で起きた大震災と世界の反応をテーマにした、特別講義です。この災害は、人々にとって、世界にとって、どんな問題を投げかけているのか、人間の倫理や価値観について、グローバルな意味合いについて、皆さんと話し合っていきたいと思います。
まず、最初に、今回の震災で被災された日本の皆様に、深い哀悼の意をささげたいと思います。今でも、非常に多くの方が、勇敢に原発事故の拡大を食い止めるために、そして復興に向けて力を振り絞っています。私はそうした日本の国民の皆様に、心からのエールを送りたい。そして、今回の講義と議論は、困難と向き合い、そして乗り越えようとしている日本の皆様への希望と再生への、何かしらのきっかけとなればと願っています。
私たちは、当初、この番組を、簡単には答えを出せない、難しい倫理や哲学的な課題、ジレンマを扱うシリーズとして着想しました。「究極の選択」と題し、社会や人間が直面する問題を、国境や文化の違いを越えて、みんなで論理的に考え、人間社会がどのように進歩することができるかを考える試みとして、準備を進めていました。
しかし、今回、日本でこのような災害が起こったことで、究極の選択第一回を特別講義に変更しました。
この震災が、世界にとって、そして倫理や人間性の問題を考えるにあたって、どういう意味を持つのかを語り合いたいと思ったのです。
さあ、始めよう。震災直後の日本人の行動を、海外の人たちはどう受け止めただろうか。まったく強盗が起こらなかった。便乗値上げもなかった。アメリカのハリケーン・カトリーナの災害の時に見られた、そうした現象が、日本では全く起こらなかった。この事実は、外国人ジャーナリストの間で、多くの感動を呼び起こした。例えば、これは、ニューヨークタイムズの記事だが、「日本の混乱の中での秩序と礼節。悲劇に直面しての冷静さと自己犠牲、静かな勇敢さ。これらは、まるで日本人の国民性に織り込まれている特性のようだ」こう書かれている。こうした日本人の反応について、誰か、感想を語ってくれる人はいないか。ボストンの後ろの列の君、どう思う? 君の名前は?

リチャード・ニューコム(ハーバード大学) リチャードです。ニュー・オリンズを襲ったハリケーンと比べると、正反対の状況を見ている気がします。僕は、テキサス州の出身ですが、あの時、避難民の方が、大勢、ヒューストンやダラスにやってきました。すると、そこでも生活品の便乗値上げが起こったのです。ですから、日本の状況は、僕には思いもよらないことでした。日本では、物は略奪しない、間違ったことはしないという秩序だった精神、責任感のようなものが、人々の間で共有されているようで、日本という国全体がそう思っているように見えました。本当に感心しました。驚くとともに、なんだか希望のようなものを感じたんです。

マイケル ありがとう。では、上海に聞いてみよう。君たちはどう思った?

林(リン)威(復旦大学) 私は、ウェブサイトで日本にいる外国人留学生が撮ったビデオを見たのですが、そこには、お店にいろいろな商品がまだ並んでいました。つまり、皆が買占めに走るようなことは起きていなかったのです。例えば、ペットボトルの水は、一人三本までとか、そうしたルールが決められ、皆がそれを守っていたんです。無理矢理、手に入れようとする人は、一人もいなかったということでした。

マイケル では東京のスタジオゲストの皆さんに聞こう。この質問から、地震が起きた時、何を考えたか、どんな体験をしたのか。高橋ジョージさん、あなたから始めましょう。実家が、仙台だそうですね。

高橋ジョージ(ミュージシャン) 僕は、被災地に行ってきましたけど、いろんな被災された人と話をしてきました。そうすると、必ず言うのは、「私たちは、まだ生きているからいい。生かされてる、だから、もっと悲しい人たちがいるから、そっちを助けてください」っていうんです。そこには、政府とか、好きだとか嫌いだとかを越した、ひとり、みんな人間の塊として、私たちは、亡くなった人たちの分まで、生きようというそういう思いが伝わってきました。

マイケル それでは、高田明さん。あなたの話を聞かせてください。大変有名なビジネスマンだと聞いています。あなたは、すぐに、被災地に5億円の義捐金を送ったそうですね。

高田明(ジャパネットタカタ社長) ニュースを見ることによって、東日本が大変なことになっているという状況が一刻一刻変わっていく中で、これは日本というよりも、地球規模でですね、始まって以来の、災害だということを感じまして、私は、あの義捐金は決して語ることが立派なことだとは全然思いません。しかし、私が、決断しましたのは、義捐の輪を広げることが、私の一つの役割じゃないかと、思いまして、咄嗟にそういう判断ができたと思うんです。ですから、今回の震災を通して、やはり、リセットして、もう一度人間ていうものを考え直さなければいけないと感じた次第です。

マイケル 今の意見を考えてみよう。世界で共に生きていくというのは、どういった意味を持つのだろうか。お互いに対して、どのような義務や責任を担うことになるのか。あるいは、公共ということの意味はなんなのか。そこで東京の学生たち、君たちに聞いてみたい、あの地震が起きた時、日本の人々の行動は、君たちから見て、どのように見えただろうか。どんなことを感じただろうか。さぁ、誰から始めよう。

石川夏子(早稲田大学) 私の名前は夏子といいます。私は、親せきが福島で被災していたんですけれども、その時、みんな、「起きてしまったことは仕方がない。でも、この後、どうしたらいいのか、それを考えなければいけない」ていう言葉がすぐ出てきたところに、すごく感銘を受けました。

マイケル ありがとう。では、君はどう感じた?

坂本龍一(中央大学) 私が一番驚いたのは原子力発電所に対する対応でした。被曝の情報が出ているのにもかかわらず、自分の職責として、その避難区域の中に自分から被曝の恐れも恐れることもなく、命を賭して入っていった人がいて、自分に与えられた仕事とか、職責とかを、そういう大事にして命を捨ててまで戦うっていうそういう姿勢に感銘を受けました。

マイケル 高畑淳子さん。あなたはどうですか。どのようなことを感じただろうか。

高畑淳子(女優) はい。私は、高畑淳子といいます。女優をやっています。震災の時、北海道でドラマの撮影をしていました。その時、北海道のある男性の方が、酒屋さんなんですけども、「原発に自分は行きたい」と、「何をのろのろやっているんだ。おれが行きたい」とその人は言いました。私は、その発言にびっくりしました。私は、行けと言われても行けないです。ただ、私は、母親なんですが、ここに私の子供がいて、自分が何かすることで、この子が助かるなら、行きます。でも、見えないものを守るために行くという気持ちは、正直言って私には、なかなか湧き起こらない感情で、その酒屋さんの発言で、私は非常に、びっくりしました。

マイケル 淳子さん。あなたに質問があります。
次の2つの選択肢のうち、いずれかを選ばなければならないとしましょう。災害時、自分の地域を守るために、非常にリスクの高い場所に行くか、あるいは自分の家族を守るために、家族とともにいるのか。あなたなら、どうします。

高畑淳子 家族のところに行きます。世の中が全部終わっても、家族と一緒に死にます。

マイケル 淳子さん。あなたにとって、コミュニティ、共同体に対する忠誠心より、家族に対する忠誠心が優先する、そういうことですね。

高畑淳子 (うなづく)

高橋ジョージ ちょっと、いいですか。今回、パニックが起こらなかったということは、僕は東北被災地の出身ですけれども、本当に、いわゆるコミュニティって今、博士、おっしゃいましたけど、まず、日本人の考え方は、家族、これが一番ちっちゃなコミュニティです。これが一点あります。東北の方々の考え方は、「私たちよりもっと大変な人たちがいる」ということで、我慢しています。我慢強いんです。非常に、考え方が。なので、その横を見ればもっと大変な人たちがいる中で、自分たちだけがどうだっていうパニックが起こらなかったというのが現実です。それは言えます。

マイケル そうした気持ちがパニックを防いだことにつながる、ということですね。

高橋ジョージ はい。

マイケル それでは、ボストン、上海の学生たちはどう考えるだろう。
日本の人たちは、パニックを起こさなかった。略奪もしなかったし、また便乗値上げも起きなかった。本当に信じられない、自己犠牲まであった。この際だった公共性、秩序、冷静さ、略奪や便乗値上げなど、考えもしないコミュニティへの連帯意識、こうしたことをどう考えればよいのだろう。非常に珍しいものなのだろうか。日本だけに特有なものなのだろうか。それとも、君たちの身近にも見ることができるのか。君たちの国でも、こうしたことを期待できるのか。ボストン、上海で、何かコメントがある人は?
では、上海の後ろの列、名前は?

蒋(ジャン)俊潔(復旦大学) ジャンといいます。今の、自己犠牲についての話ですが、私は特に驚きませんでした。むしろ、自分を犠牲にする人がきっと出てくるだろうと思っていました。日本人の行為は、中国人の価値観でも理解できることです。例えば、中国の伝統から言っても、国のために自分の身を投げ出す人々は非常に高く評価され、尊敬されてきました。中国には昔から、国のために自分の身や自分の家族を犠牲にする人たちの物語が数多くあります。

個人主義VS共同体意識

マイケル では、ここで、政治・哲学の問題に移ろう。東京・上海・ボストン、それぞれの学生たちの意見を聞きたい。日本で、今回の震災の直後に見られたのは、自己犠牲の精神や公共性の尊重というものだった。そこで、君たちは、どう考えるだろうか。
そうした日本人の反応はどの程度、アメリカやヨーロッパについて指摘される個人主義と対照的なものなのだろうか。これはどの程度、共同体的考え方、政治哲学でいう、コミュニタリアン(共同体主義者)的な精神だと言えるのだろうか。
ボストンのリチャードは、最初に、ハリケーン・カトリーナの後での便乗値上げの話をしてくれた。あの時のアメリカと、今回目にした日本での状況を比較してほしい。これは、個人と共同体のいずれを重視するかという2つの異なる価値観が目に見える違いとして現れたものだろうか。ボストンの後列の女性、君の名前は?

ハーリーン・ガンビール(ハーバード大学) ハーリーンです。確かにそうだと思います。西洋では個人主義の自分のためにという価値観が強く、一方、東洋では共同体的な助け合う価値観が強いのではないかと思います。ただ、ハリケーン・カトリーナの例では、人々は、自分で自分の身を守らなくてはいけませんでした。誰にも頼れない、誰も助けに来てくれないという意識があの時は強かったのだと思います。
これに対しては、日本では、お互いに頼りあって助け合うという感覚ではなかったのではないでしょうか。皆が我慢し、皆が協力し合う、原発での復旧作業でも国のために自主的に人々が協力して自分ができることをする、こうした強い共同体意識は、今後の復興、再建にあたるときに、大きな力になるのではないでしょうか。
人々が争ったり、略奪が繰り返されるアメリカのような場所では、再建はもっともっと困難だと思います。

マイケル いいだろう。上海の学生たちはどう思う? この問題、個人主義とコミュニティへの忠誠心、この衝突について、どう思う?

林(リン)威(復旦大学) アメリカの例については詳しくありませんが、中国では、一部の人が塩の買い占めに走るということがありました。塩が被曝を防ぐといううわさが流れたからです。中には10年分もの塩を買い占める人まで現れました。個人主義というは、欧米だけでなく、様々な国でも見られることだと思います。

マイケル 非常に面白い。個人主義はどこにでもあるもの、欧米に特有なものではないという意見だった。これに対して、どう思うだろう。

早田憲司(早稲田大学) 日本であの、買占めとかが多数起きてますけれども、例えば、カトリーナだとか、例えば四川大地震の時に起こったような買占め、もしくは強盗そういった犯罪行為に比べれば、東京で起きた出来事というものは些細なものであるというのは、確かなことだと思います。それはひとえに日本人が自己犠牲の文化、あの自己犠牲の精神というものを強く持っていた、西洋の人よりも強く持っていたことも確かだと思います。ただ、また、一方で、あのボストンでの学生が、おっしゃったと思うんですけれど、カトリーナの際には自分自身で生きていかなければならなかったという状況があった。つまり、食糧とかが、もう、本当になかった。対して、東北の人たちについて考えてみれば、食糧とかは底をついてきていますけれども、あの人々は、次の日になれば、政府が食糧をくれるといった期待を持っていたと思います。そういった政府への信頼があるからこそ、自己犠牲といった精神もより現れ、個人主義に走らない方向になってきていると僕は考えております。

マイケル 石田衣良さん、あなたはどんな意見を持ったでしょうか? 個人主義と共同体意識について。

石田衣良(作家) こういう災害に起こるとですね。それぞれの国の地の部分が浮き上がってきますよね。で、マイケルさんがおっしゃってるような、そのコミュリタリアニズム(共同体主義)の規範というのは、日本人の場合は、思想かとかではなくて、生活の中にしみ込んでしまって、トラブルがあるたびに出てくるんですよ。ですから、外国のメディアで暴動や窃盗が起こらなかったことが奇跡だというのがありましたけれど、それが日本では、まったく当り前です。ええ、そういう災害の現場で、盗みが起こるようなことは誰も想定していないですね。ただ、そこでひとつ申し上げておきたいのは、マイケルさんがおっしゃっているように、そのコミュニタリアニズムの考えというのは、国に対する忠誠ではないです。自分の小さな地域、目の前にいる家族、あるいは友人たちに対する献身としてあらわれてくるという、日本では政府はあんまり人気がないんですよ。

マイケル 衣良さん、つまりこういうことだろうか。忠誠心や義務感を自分の身の回りのコミュニティ、たとえば家族や地域には抱く、しかし、その一方で、政府に抱く忠誠心や義務感はそれとは全く違うものだ、そういうことでしょうか。

石田衣良 ええ。日本では、まったく違いますね。

マイケル 誰か、違う意見がある人は? そこの君。

小林悠太郎(東京大学) 日本で暴動が起こらなかった理由として、あの、皆さん、家族だったら守るといったんですけど、日本は多民族国家ではないので、国全体としてひとつのファミリーだという気持ちが強いと思うんですね。なので、隣の方はもちろん家族じゃないかもしれないけれど、どこかでいつか、昔々つながっていたかもしれない、そして、そういう気持ちがみんなが共有しているからこそ、まあ、きっと隣の人が自分を助けてくれたはずだという期待のもと、また自分も助けると思うんですね。これがまた、カトリーナとかの場合ですと、隣の方は、私は日本人ですけれど、前の方は中国人、そしてヨーロッパ人と様々なバックグラウンドがあったと思うんですけど、そうした場合に、価値観を共有してるかというと、確かめられないので、不安になり、家族を、一番小さな家族を守るということに集中すると思うんですね。それが、日本でいま、暴動が起こらなかった理由の一つだと考えています。

マイケル 悠太郎が指摘したのは、こういうことだろうか。国には、拡大家族とも呼ぶべきコミュニティの側面がある。それは、日本が、例えば、アメリカのような非常に多くの民族が同居するような社会ではない、という事実に関係しているのではないか。ということだ。
では、逆に、強い公共への倫理観は、ある種の同質性や、多様性の欠如という、マイナスの面もあるのだろうか。どうだろう。

東野碧(東京大学) 何かが起きた時にでも家族を真っ先に守りたいという人もいれば、自己犠牲が自分の住んでいるコミュニティになるかもしれない。もしかすると、国というものがコミュニティの枠として考える人もいるかもしれない。つまり、そのコミュニティの単位は考える人によって違うんだと私は思います。
ただ、それが、平時、日常にあってはいろいろな単位があってもかまわないんです。ただ、こうした有事、つまり非日常の社会生活になった際に、日本においては、自己犠牲、コミュニティに対する自己犠牲が圧倒的に強くなると私は思います。その際、ひとつ私は、疑問、そしてジレンマに思うのは、もしかすると、東電の原発事故に命を賭してかかわっている人の中には、何よりも自分の家族を守りたいと心の中で思っていた人もいるかもしれない。ただ、社会がそれを、果たしてじゃあ私はもうと言える状態にしていたかという疑問があります。

マイケル 彼らには選択の余地はなかったと思うんだね。倫理感が強いあまり、断れなかったんだろうか。

東野碧(東京大学) 断れなかったと感じていたのかはわかりません。ただ、無意識のうちに権利があったとしても、それが行使できない形に、ある種、方向性としてそういう力が働いていた。権利があったとしても、行使できるという風に感じられない状況があるんじゃないかと。

高田明 ちょっといいですか。世界がいまグローバル化しているんですけれども、日本が島国ですよね。その部分が、先ほどの自己犠牲とかいう話につながっていると僕は思っているんですけれども。ですから、グローバル化は経済もしているんですけれども、グローバル化に出くわしたときに、本当に対応するという力が、アメリカやヨーロッパと比べた時に、やっぱり劣っているんじゃないかなと。だから、これは日本が震災を経過して学んでいき、そういうことを日本の国にすごく投げかけたんじゃないかという風に、ちょっと私はそのように思っているふしがあるんですけどね。
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