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素人だから言えることもある

傷ついた竜の復活(現実がひっくり返る年・3)

竜にたとえられた日本

僕が「日本沈没」の話をしたのは震災前だった。それは、「[お題]ガラパゴスかパラダイス鎖国か」の中で、渡老人の言葉を引用した。
「いわばこれは、日本民族が、否応なしにおとなにならなければならないチャンスかもしれん……。これからはな……帰る家を失った日本民族が、世界の中で、ほかの長年苦労した、海千山千の、あるいは蒙昧で何もわからん民族と立ちあって……外の世界に呑み込まれてしまい、日本民族というものは、実質的になくなってしまうか……それもええと思うよ。

……それとも……未来へかけて、本当に、新しい意味での、明日の世界の“おとな民族”に大きく育っていけるか……日本民族の血と、言葉や風俗や習慣はのこっており、また、どこかに小さな“国”ぐらいつくるじゃろうが……

辛酸にうちのめされて、過去の栄光にしがみついたり、失われたものに対する郷愁におぼれたり、わが身の不運を嘆いたり、世界の“冷たさ”に対する愚癡や呪詛ばかり次の世代に残す、つまらん民族になりさがるか……これからが賭けじゃな……。」(小松左京著「日本沈没・下」光文社文庫)(ケータイホームレス・さまよえる日本人論(2) )

震災を越えた今にして思えば、閉塞状況に落ちていた「失われた20年」の日本を脱出する一つのチャンスだったのかもしれない。

もし、このまま、喪失した過去の郷愁に嘆いていれば「辛酸にうちのめされて、過去の栄光にしがみついたり、失われたものに対する郷愁におぼれたり、わが身の不運を嘆いたり、世界の“冷たさ”に対する愚癡や呪詛ばかり次の世代に残す、つまらん民族」となってしまうか、改めて復興して「未来へかけて、本当に、新しい意味での、明日の世界の“おとな民族”」へ向かうかの分かれ道に到達したのかもしれない。

そして、震災が起こった後に書いた「想定外の事態(現実がひっくり返る年・2)」で再び、「日本沈没第二部」の中の言葉を引用した。

かつて東アジアの端に、一頭の竜が棲息していた。

老練でしたたかな竜だった。西方から突出する大陸塊と千尋の深海の狭間に身を置いて、たくみに均衡をたもちながら数億年の時をすごしてきた。

その均衡が、ある日を境に破れた。竜はみずからの炎で灼かれ、身もだえしながら波間に没していった。竜は死んだ。だが竜の子供たちは、世界の各地で生きつづけた。母竜の思い出を語り、記憶を大切にしながら暮らしていた。

それから数百年がすぎた。臈たけた母竜にとっては一瞬でしかないが、世慣れしていない子供たちには充分すぎるほど長い時間だった。その間にも世界は変貌をつづけ、かつて東アジアに存在した国の記憶はうすれていた。(小松左京・谷甲州著「日本沈没 第二部」小学館

もちろん、今回の震災で日本が沈没する危機に陥ったわけではないが、それでも竜にたとえれば、その脊髄部分にある東北地方が傷ついたことには変わりはない。そして、私たちは、今まで忘れていた、東北地方の大切さを今、改めて知ったのではないか。

竜と龍、革命のなかった日本

竜と言えば、思い出すのは昨年流行した「坂本龍馬」ブームである。僕は、「日本は龍馬を待っている」の中で、こう書いている。
確かに、幕末と現代は環境が180度違う。だが、人々がそれぞれの環境に縛られている現実はまったく変わらない。脱藩して日本中を歩き回らなければ、情報を手に入れられなかった幕末と、自宅にいながらにして世界の情報が集まってくる現代。しかし、いくら情報が分かるからといって、行動しなければ何も変わらない。むしろ、その情報を使って、どんな行動を取るべきかを考える段階に来た。誰かが変えてくれるという龍馬を待っている時期は過ぎたのである。一人ひとりが龍馬となって行動し、現実を変えていかなければならない
坂本龍馬は、幕末の激動期に活躍している。しばらくたつと、明治という外来文化が花開く時代がやってくる。龍馬はたえず、差別がなく、海外に行ける社会を語っていたのを思い出す。

思えば、日本というのは、不思議なことに、ほかの国に比べて「革命」を経験したことがない。「革命」についてWikipediaを読むと、

革命(かくめい Revolution)とは、被支配階級(主に市民・平民・農民など)が支配階級に対して、しばしば暴力的な手段を伴いながら、政府と社会の組織を抜本的に急変させる政治権力の行使を指す。また、「産業-」「農業-」のように、従来の思想や技術、方式がひっくり返る様を示す語尾にも使われる(なお、既存の技術や発想から飛びぬけた発展を革命的とも言う)。(革命-Wikipedia)
そして、日本については、
中国大陸は多くの革命を経験しており、また朝鮮半島やベトナムでも革命は起こっているが、それらに比して日本では、有史以来革命が起こったことがないとされている。政権の交代はしばしば発生したが、天皇の家系もしくは天皇の臣下(征夷大将軍や関白)という形式を崩さなかったからである。(革命-Wikipedia)
しかし、被支配階級(主に市民・平民・農民など)と支配階級の逆転がなかったわけではない。明治維新や終戦後の逆転など、何百年ごとに外からの激動によって行われた。僕は、「耕す文化」と「種まき文化」(異文化文献録) でこう書いている。
日本人は、いつも思想は外からくるものだと思っている」 ( 司馬遼太郎「 この国のかたち 」文芸春秋社 ) 。この「思想」を「文化」に換えても納得がいく。「独創的な文明は、日本よりも外国で作られる可能性が大きいから、それを取り入れる方が能率的だ。中国に儒教があれば儒教をもってくる。インドに仏教があればそれをもってくる。ヨーロッパに科学技術があればそれを持ってくる。これが一番よいやり方だと考えた」 ( 梅原猛「 日本文化論 」講談社学術文庫
日本は都合よく、海外の文化を取り入れることで生き延びてきた。それでも、閉塞状況になったり、支配層が硬直化すると、深い眠りの中から、竜が目を覚ます。そして、日本人自らが、このままでいいのかと考えるのだ。

龍馬を演じた福山雅治氏はこういう。

自分も大人になって思いますが、これだけいろいろな情報が手に入りやすくなると、情報を集めることだけに終始し自分で決断をしなくなるなと思います決断することを恐れるようになるのではないでしょうか?

きっと龍馬さんは、田舎者で、子どもで、世の中のことを何も知らなかったからこそ、「このままじゃいかん、日本を変えるんだ」と思えたのだと思います。いろいろな情報を知っていたら、「変えられない、そんな大変なことはできるはずない」と考えたのではないでしょうか

(中略)

人は賢過ぎると、よくない側面もあると思います。頭で考え、ロジックを組み立て過ぎると、時代の速さに負けてタイミングやチャンスを逃してしまう。知らないことは人に聞けばいい、恥ずかしがったり、怖がったりせずに、“まず行動ありき”。打ち破るべきは、自分の殻である。行動力の大切さを龍馬さんに教えてもらいました。(福山雅治ラストメッセージ)

僕たちは、東北の被災で、見えてなかった東北の重要な部分が見えてきた。

東北各地に部品工場や生産工場があり、それが止まってしまったために、世界中の自動車や電気製品の製造や入荷が止まってしまったこと。それが日本製でないのにもかかわらず。世界中、特に日本国民は改めてそれを知ったのではないか。東北を救わなければ、自分たちを救えないことに。

そして、これは「日本民族が、否応なしにおとなにならなければならないチャンス」なのだ。

復活する竜

今回の震災の特徴は、自治体が壊滅してしまったために、避難所を掌握することができなかったことだ。そのため避難所が孤立無援となり、膨大な行方不明者を増やし続けた。自治体が縦割りで掌握するシステムは、横のつながりが弱点となる。

僕は、今年は「現実がひっくり返る年」と言っている。縦割りで全体を見えていなかった日本はインターネットという横のつながりが必要になるということを。

今までは、政治家やマスコミなど一握りのメンバーによって社会が動かされてきたが、インターネットによりすべての国民が参加することが可能になりつつある。もちろん、国民の知識を集約するためには、新たなルールが必要になってくるだろう。少なくとも、これからの時代は、今まで考えないで、過去の常識に乗って動いてきた人間には、大変な時代になってくる。絶えず、ブログやツィッターにより、過去の言動が調べられるからである。そして、常に考え、発信していく人間に注目が集まるだろう。これが、現実をひっくり返すということである。([お題]大予想「現実がひっくり返る年」)

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