「これからスマートフォンが起こすこと。」の久夛良木健特別寄稿(ホームサーバの戦い・第120章)
僕はこの「ホームサーバの戦い」シリーズの始まりは、ホームサーバの戦いシリーズの原点(ホームサーバの戦い・第117章) で書いたように、そもそもは久夛良木健氏の発言だった。したがって、これからのホームサーバの戦いでも、久夛良木健氏の発見に注目する必要もある。ところが、彼には著書がない。そこで、ネットや雑誌のインタビュー記事などをこまめに探っていくしかない。そこで見つけたのが、AV Watchなどで活躍されている本田雅一氏の「これからスマートフォンが起こすこと。」(東洋経済) に載っていた久夛良木氏の特別寄稿である。
著者の本田氏から見れば、これについて論じられるのは本末転倒でとんでもないと考えるだろう。しかし、このようなIT関連の単行本は、どうしてもネット情報の後追いになり、単行本が出た時点で古臭くなってしまう宿命がある。一方で、ネット情報はバラバラで、著者の視点から文章をまとめる場所は単行本しかない。著者の発想に深く感銘する読者は、その単行本を買うだろうが、ネットで無料で新鮮なニュースを読める読者は、まずこれらの単行本を買わないだろう。そうなると、久夛良木氏の貴重な意見はそれを必要とする読者に届かない。僕は、このブログをスクラップブックとして考えているので、それをここに載せることにした。
先の20世紀は「大量生産」「大量輸送」「大量販売」「大量消費」の時代だとも言える。ラジオやテレビといった家電製品の普及が始まり、それらの録音・録画機器としてのラジカセや家庭用VTRも登場し、録音・録画済みの音楽・映像コンテンツがCDやDVDに大量に焼き付けられ世界中に広く出荷されて行く過程で、巨大な家電産業やコンテンツ産業が勃興し人々の日々のライフスタイルを加速度的に変貌させて来た。一方で、半導体の微細化によるマイクロプロセッサの急速な性能向上とメモリ容量の劇的な増大により、かつての高価な大型メインフレーム・コンピュータシステムの性能さえも凌駕するような高性能かつコンパクトなPCが、年間数億台規模で手ごろな価格で世界中のオフィスや家庭内に届けられるまでになっている。
この時代のサプライ・デマンド(需給)チェーンは、それがハードであれソフトであれ基本的に「モノ」に置き換えられた流れであり、基本仕様に則って設計図や金型を起こし、高度に管理された量産工場で大量にそれらの複製物が生産され世界中に供給されていった。モノの流れを支えたのは道路や鉄道のインフラ整備により生産地と消費地を太いパイプで結びつけた車や貨物列車または船舶や飛行機といった物理的輸送手段であり、これらが産業革命以来の集中生産システムと有機的に結びつく事により、数多くの製品群が世界中に供給されるようになったのである。その近代工業化の集大成となった20世紀がまさに終盤に差し掛かろうとするタイミングで、次なる巨大革命の流れが一気に湧き起こる。それは、これまで慣れ親しんだ物流や商流のみならず、主要な産業の基盤となっていたような製造業の枠組みさえも本質的に揺るがすような革命であり、広帯域の光ファイバー網の敷設や次世代無線通信技術の登場を待ち望んでいたかのように急速に普及が進んでいる地球規模のデジタル情報ネットワーク網の誕生である。
これにより、従来は物理的にも経済的にも移動したり利用したりすることさえも困難であったような多様な商品群やサービス、そして膨大な情報がインターネットやモバイルネットワーク網を経由し、さらなる利便性を獲得しながら世界中の人々に届けられるようになった。さらにはネットワークの双方向性を活かして、サービス提供者や生産者と消費者を直接結び付ける事により、従来は市場に投入する事さえ困難であったようなユーザーの嗜好に合わせたきめ細かい商品群の提供や個別サービスの対応も進んでいる。このような時代では、ユーザーの嗜好や関心の在り処といったような多様でダイナミックな属性を効果的かつ広範に入手する仕組みが重要となる。この意味で、ユーザーに一番近い日常的な情報端末としてのスマートフォンの登場は、今後のクラウド型サービス拡大の最高のコンパニオンとして、ますます重要な位置付けになって来るものと思われる。
平行して従来高性能なPCやモバイル端末、あるいは専用の家電機器や専用ゲーム端末で実行していた様々な機能やサービスが今後ネットワーク側に次第に溶け込み始め、究極的にはクラウド型サービスに移行していくものと予測される。しかし未だ膨大な量のパッケージ化されたコンテンツやデータがPCあるいはAV機器に組み込まれたメディア上に蓄積され、そのままの状態では速やかにネットワーク側に移行する事が困難な状況が今後の大きな課題としてのしかかる。皮肉な事に、20世紀最後の数十年間の発展を支えた様々な記録メディア群の中で、磁気テープ上に記録されたアナログ情報は、それが放送局の貴重なアーカイブや個人の思い出の映像であれ等速再生がネックとなってデジタル化移行が最も遅れているコンテンツの一つとなっている。大きな懸念点としては、磁気テープ上に記録された情報はセルロイドに焼き付けられた古の映画やニュース映像と同様に経年変化による劣化が起こり易い事で、このまま放置すると書籍とは異なり20世紀後半に記録された人類の貴重な記録の一部が歴史からすっぽり消失する危険性さえも秘めている。反面、音楽CDのように光ディスク上に当初からデジタル記録されているコンテンツは、高速再生も可能で容易に家庭内のPCでもリッピング可能であった事から、最も早くネットワーク側に溶け込んだコンテンツとなった。
これらコンピュータの誕生以降に蓄積された様々なデジタルデータは、インターネットの普及に伴って端末側からサーバー側、ひいてはクラウド側に急速なスピードで現在移行が進んでいる。Googleに代表される検索エンジンは、ネットワークをくまなくクロールして世界中に散在している様々な情報やデータを巨大なデータセンター内に日々整理し、人類の「知」として蓄積している。同時に旧来のメディアの代表である書籍も再利用可能なデジタルデータとしてアーカイブ化が進み、電子書籍端末を利用するという新たな読書スタイルと市場を生み出した。今や映像コンテンツは専用のAV機器にテープやディスクをかけて楽しむだけではなく、ネットワーク側に蓄積されている映像アーカイブから様々なスタイルで引き出して、ユーザーの好みに応じた身近なネットワーク端末から楽しむ事が出来るサービスも登場するなど、ユーザーサイドから感じる利便性の向上も著しい。同時に通信と放送の融合も進み、インターネットを経由したリアルタイム・ストリーム配信も可能になるなど、その両者の垣根はますます低くなりつつある。
しかし現在の時点では、これらクラウド型サービスを支えるサーバー群の処理能力が必ずしも十分ではない事と、ネットワークの帯域が物理的にも経済的にも世界中のユーザーからの無制限のアクセスを受け止めるだけ現時点で余裕を持って整備されていない事から、しばらくの間は何から何までもクラウド上で実行される事を前提としたシステムに一足飛びに移行するにはかなりの無理がある。この意味もあり、理想的なシンクライアントに移行する前段階として、一定の機能を有するネットワーク接続可能なリッチクライアントを市場に投入し、クラウドサーバーとの協調動作でユーザーにまず斬新なネットワーク体験を楽しんで貰う段階が当面存続出来る可能性もある。その意味でAppleの採った戦略は、現時点での一つの現実解と言える。一方、筆者(本田雅一氏)が指摘するように、それらの様々なネットワーク上の制約をものともしない勢いでAndoroidベースのスマートフォンが一気に市場を獲得する可能性も否定できない。それは、鶏と卵のアナロジーとしてだけではなく、「オープン」対「クローズド」の間を揺れ動く微妙な綱引き、言い換えれば「賢い管理」と「原則自由」を巡るイデオロギー的な論争でもある。しかし、今世紀に入り従来の大規模量産工場に代わって巨大な情報処理能力を有する大規模データセンターが世界中で続々と建設され始め、ソーシャルグラフを含む様々なデータベースが日々誕生している現在、人間とのインターフェースとしての広義のネットワーク・クライアント群と、巨大なクラウドサーバー群出現によりますます加速するイノベーションの奔流は、もはや止めようもないものになりつつある事を改めて認識する必要があるだろう。
2011年4月 サイバーアイ・エンタテイメント株式会社 代表取締役兼CEO 久夛良木健(本田雅一著「これからスマートフォンが起こすこと。」東洋経済)