21世紀の今、改めて読み解く手塚治虫のメッセージ
鉄腕アトム・ブラックジャック・どろろの共通点
昨年2009年は、手塚治虫生誕80周年であった。実写版映画「MW」や「どろろ」、ハリウッド版アニメ「ATOM」など公開されたが、もう一つパッとしなかった。60歳で亡くなった手塚治虫にとって、せめて鉄腕アトムが誕生した日とされる2003年まで生きたかったことだろう。2010年の今、改めて手塚治虫がマンガを通して送るメッセージとは何だったか、思い起こしてみたい。たとえば、タイトルに上げた三作には共通点がある。それは「解体」と「創造」と言うテーマである。僕は、黒手塚ワールド「どろろ」で、こう書いている。
さて、この「どろろ」大変凄惨な物語である。その凄惨さゆえにテレビでアニメ化したものの、再放送はされなかった。特に遺作になった「ネオ・ファウスト」の構想では、
泥棒「どろろ」と旅する百鬼丸の父醍醐景光が天下を取るため、48の魔物に自分の息子の体をささげたことから始まる。
その箇所は、ゲーテの「ファウスト」とよく似ている。ファウストは、すべての学問を究めた老学者でさらなる満足を求めて悪魔と魂の契約を結ぶ。(ファウスト-Wikipedia)手塚はこのファウストの物語を何度も書いている。(「ファウスト」「百物語」「ネオ・ファウスト」)。
特に、ファウスト第二部第二幕に「ホムンクルス」(人造人間)が登場する部分は、手塚がたびたび描いている「生命誕生」のシーンを髣髴とさせる。
たとえば、「どろろ」では、寿海(じゅかい・百鬼丸の育ての親)が48の魔物によって失われた箇所を義肢や義足で補い百鬼丸を形作るシーン。「鉄腕アトム」では、天馬博士がロボットアトムを完成させるアニメのオープニング。映画「どろろ」では、このシーンでわざわざエレキテル(電気)でショックを与えるシーンを加え、「鉄腕アトム」へのオマージュとなっている。さらにいえば、「ブラックジャック」でのピノコを姉の体内から取り出し、人間として組み立てるシーン(「畸形嚢腫」より)。
「どろろ」とは関係ないが、鉄腕アトムが「ピノキオ」(原作カルロ・コッロディ)に影響を受けたのは有名だ。ピノキオが悪い狐たちにだまされて「サーカス」に連れられていくが「鉄腕アトム」でもロボットサーカスが登場する。ピノキオの場合、最後にゼベットじいさんという生みの親の元に戻るのだが、手塚の場合、「どろろ」でも「鉄腕アトム」でも生みの親(醍醐景光・天馬博士)よりも育ての親(寿海・お茶の水博士)のほうが優しいというのは一体どういう意味だろうか。父親を乗り越えていけという意味かもしれない。ちなみにブラックジャックのピノコはその名のとおり、ピノキオの女の子版という意味である。(黒手塚ワールド「どろろ」)
「さらにゲーテの作品では、ホムンクルスという人造人間がちょっと出てきてすぐ消えてしまいましたが、私の今度の作品では最後まで生かそうと思うのです。過激派のリーダー石巻は、メフィストに殺されるのですが、彼は死ぬ前に自分の精子を坂根(坂根第一=ファウスト)に渡して、“これを培養して将来バイオテクノロジーの実験に使ってくれ”と言うのです」と、今まで手塚治虫は、科学万能社会を肯定的に詠っているように見られてきたが、何度も現れる解体と創造の物語は、人間による新たな人間を作ることに対する強い拒否感をあらわしている。また、現代の若者に対する違和感も見逃せない。
「結局、石巻の精子はクローン人間として誕生します。このクローン人間は石巻の分身ですから、彼の持っていた根っからの革命精神というか、闘争精神のようなものがあるわけです。それを坂根がなんと思ったか、ホムンクルスのような新しい生物に作り直してしまいます。そしてそのホムンクルス型の生物が地球を破壊してしまうのです」
「先ほど、バイオテクノロジーが主題だと申し上げましたが、もっと申しますとバイオテクノロジーに対する私の不安とか拒否反応がメインテーマなのです。ところで、地球が破壊されてしまうのですから、ゲーテが導入した“救い”がなくなって、伝説上のファウストの地獄堕ちという形になりそうです。下手に描くと夢も希望もないカタストロフィーに終わってしまいそうですが…。今の若い人は終末思想に近いものを持っていて、意外と醒めていますから、それでも良いのかもしれませんが…。やはり作者としては、救いを導入しないといけないでしょうねぇ…。しかし、これもうまくしませんと、妥協的な安易なものになってしまいます。このへんで迷っているんです」 (長谷川つとむ著「手塚治虫氏に関する八つの誤解」中公文庫)(「宝物とは知識」インディ・ジョーンズを見て考える)
この本「手塚治虫氏に関する八つの誤解」を書いた長谷川つとむ氏は、
ゲーテ作品でホムンクルスがせっかく登場しながらエーゲ海上であえなく砕け散り、“人間の知恵だけから生じたものは、成り出づることはできぬ”ことを説いたのに対し、石巻のクローン人間から作り直されたホムンクルスは地球を破壊する。つまり人間の知恵から生じたものが神の作った大自然をこわすという恐ろしさが語られる点である。 (長谷川つとむ著「手塚治虫氏に関する八つの誤解」中公文庫)(「宝物とは知識」インディ・ジョーンズを見て考える)ゲーテは、神の手を離れて人間を新たに創造できぬとして限界を説いたが、現代社会のテクノロジーはすでにゲーテの想像力を超えている。
ホムンクルスはすでに誕生している
「ソフトバンクの300年後を想像してみる」で、触れたような300年後の未来ならそんなこともあるだろうと考えるかもしれない。でも、現代日本人はすでに解体を始め、新たな人類を作り始めたのではないかと言う人がいた。SF作家であり、評論家でもあった中島梓氏である。そのなかでももっとも端的であったのはやっぱり「どろろ」の百鬼丸であるだろう。これは深読みのしすぎだろうか。現実に、「助けて」と言えない理由の餓死した39歳の若者や、日本中にはびこる無縁社会(無縁社会と三ない主義)など、本来人間と人間との持つべきコミュニケーションは失われながら、ケータイやPCなどの人工的なコミュニケーションツールのみ存在している環境は、まさに「社会と時代とによって自分の「居場所」を奪い取られ、それを人工の幻想のなかに見つけてこそ生き延びなくてはならなかった現代の弱者たち」(中島梓著「コミュニケーション不全症候群」筑摩書房)のことではないのか。
実の父親の出世欲のために魔物にその体の各部分をうばいとられ、魔物を倒してそのたびに手や足や口、声や目を取り戻さなくてはならない百鬼丸はあまりにも、それが描かれてから二十年ほどして私たちのおちいっているこの現代の状況を象徴している。
実際に百鬼丸がとりもどした手足や声が、天才人形師の作ってくれた人口の手足や声帯が出す声よりも有能であったかどうかはまったく保証できないのだが、しかし百鬼丸はともかくも<人間>に戻らなくてはならぬ。実の親のエゴによって目も鼻も口も手足もなにもない芋虫のような赤ん坊にされてしまった百鬼丸が生きのびるには、たとえどのような魔物とたたかい、取り戻すのはどういうパートであるにせよ、ともかく本来自分自身であったところのものをすべて取り戻す以外にはないのだ。
百鬼丸こそは、社会と時代とによって自分の「居場所」を奪い取られ、それを人工の幻想のなかに見つけてこそ生き延びなくてはならなかった現代の弱者たちの姿の予言であり、しかしその後これほどまでに社会中に満ちるにいたった現代の百鬼丸たちはその先達の寓話をいっこうに寓話としてしかうけとるようすがなく、何もその自己をとりもどそうとする困難な勇気のいるたたかいに挑んでいっていないように見える。 (中島梓著「コミュニケーション不全症候群」筑摩書房)( 中島梓氏の手塚治虫論(「コミュニケーション不全症候群」から))