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素人だから言えることもある

飯島愛の突然死にみる心と体のアンバランス

飯島愛の突然の死

 元タレント(大体、こんな職業があるのか)、飯島愛の死には驚かされた。報道によると、芸能界を引退した理由は、
飯島さんは腎盂(う)炎による体調不良を訴え、昨年3月31日に芸能界を引退。「インターネットの普及によって、あらゆることが便利になった今、板(ステージ)の上で勝負ができない私には、この先のタレント活動は厳しいものになる」「目標や夢が見いだせず頑張れないのなら、生き残っていくことは不可能」と理由を説明した。(飯島愛さん自殺か ノイローゼ、幻聴明かす)
だという。彼女は彼女なりに、芸能界の居場所を探していたのだと思う。しかし、その中途半端な立場が彼女の存在感やファンへの共感を作っていた。彼女は、芸能界というところは、一芸に秀でた人が出るところ、と思い込んでいたのかもしれない。引退して、一人になって次の計画があったという。
関係者によると、最近になって、オリジナルのコンドームやコスメなどをインターネット上で販売する会社を設立。以前から温めていた事業といい、自身が社長に就任した。12月26日号の「週刊朝日」の取材には「かっこいいシモネタ産業。もうすぐショッピングサイトもオープンします」と説明。その一方で、引退後の生活について「とにかく私、ヘンだったの。10円ハゲはできるし、幻聴は聞こえるし」などと明かしていた。(飯島愛さん自殺か ノイローゼ、幻聴明かす)
 果たして、その仕事が彼女に向いていたかどうかはわからないが、少なくとも、芸能界での中途半端な位置にミスマッチを感じていのだろう。また、その死因は、現在確定されていないが、おそらく睡眠薬の誤用による事故などに落ち着くのかもしれない。

 ともかく、彼女は、彼女だけしかできない仕事を求めて引退したが、本当に自分に向いた仕事につくことが、ほとんど不可能な時代になってしまったことは確かなようだ。

心はバーチャル、体はリアル

最近のテーマは、現代社会のバーチャルとリアルの関係を考えているが、たとえば、「バーチャルがリアルを破壊する」でも、
 たとえば、サブプライムローンによる金融危機がそうだ。誰もが儲かると思ったバーチャルがアメリカの金融産業を踊らせたのだ。また、特別会計という埋蔵金騒動がそうだ。おかげで、定額給付金騒動まで引き起こした。もっとも、政治家は常に、国民にバーチャルな夢を与えるのが職業だが。

 さらに、「食の安全」がそうだ。「安心」は常にバーチャル世界の賜物だ。なぜなら、その食品が安心かどうかはマスコミで報道されなかったから「安心」という、バーチャルなイメージで成り立っているからだ。一方、「安全」は常にリアル世界に属している。少なくとも、物理的に様々な基準を経て「安全」とされているからである。

(中略)

このように、バーチャル世界は心の中の世界、リアル世界が物理的な現実の世界と読みかえることかできる。今までは、バーチャル世界はともかく、リアル世界さえ大事にしていればよかったと考えてきたサラリーマン社会でも、如実にバーチャル世界の侵食が実感される時代となってきた。

 また、「派遣制度はバーチャル雇用」でも、
人間と人間の間にメディアが入り込むことによって、「時間と距離を超越」したケータイはいわばバーチャル空間となってしまった。

 これは、インターネットがビジネスの世界に入り込むことで、ますますバーチャル空間が日常化してきた。今まで、テレビで新製品の情報があっても、近くの店で買うしかなかったものが、インターネットを通して買い、配送してもらうことができる。そこにあるのは、いわば、「時間と距離を超越」したバーチャル空間なのである。

(中略)

人と企業の間に派遣会社が入ることで、バーチャル空間ができてしまったのではないか。そして、その特徴として、簡単にON・OFFできる関係となってしまったのではないだろうか。

「脳化社会」の心と体

 もともと、この発想は解剖学者の養老孟司氏の「脳化社会」の受け売りである。
人間は進化するたびに自分たちに都合のよい社会に作り変えていく。人間は自然を避けて都市を作り人工物に囲まれて生きていく。人工物であるから、ある程度の危険は予測できる。このような「ああすればこうなる」社会が「脳化社会」であるという。つまり、脳の中で作った社会が現実化しているというわけだ。(脳化社会とWii)
そして養老氏は、
「テレビゲームを皆さん嫌がっていますが、私は案外あれでいいんじゃないかという気がします。なぜかというと、バーチャル・リアリティー、仮想現実なんていっていますが、都市の中に住んでいる人間の現実は、いまとなっては仮想現実なのです。」(養老孟司著「まともバカ」だいわ文庫)
と言う。また、
 脳化の行き着く先が何かというと、都市です。都市は、建築家の脳の中に住んでいる。あるいは、さまざまな方が設計したシステムの中に住み着いている。

 逆に、人間が設計しなかったものを自然と定義します。脳の中になかったもののことです。人間の身体は何か。人間の身体は自然です。身体を生じさせるのはゲノムですが、このゲノムは人間が設計していません。もともとそのようにできています。(養老孟司著「まともバカ」だいわ文庫

 つまり、単純に定義すると、脳=心=バーチャルであり、自然=身体=リアルとなる。もちろん、脳=心と単純化していいのかどうか、人によって意見があるかもしれない。とりあえず、人間の脳が考えだした空間がバーチャルであり、人間が想像もしていなかった空間がリアルであることは、理解できるだろう。脳化が進化していけば、世の中は、当然、バーチャル化していく。ところが、身体は自然なので、人間関係はリアルである。自分の思ったように動こうとすると、ぶつかってしまう。たとえば、ネットコミュニティとリアルなコミュニティを考えてみよう。
ネットにもコミュニティサイトがある。だが、それはバーチャルなコミュニティである。顔も知らない、性別も知らない、ハンドルネームのみのコミュニティだ。これは結局小説を読んでその主人公の顔かたちを想像することに似ている。いわば、脳の中だけのコミュニティである。地域コミュニティでは相手の顔も知り、性格も知る。知り合いになれば家族も紹介されるかもしれない。こういう、想像じゃないリアルなコミュニティは、手を触れることのできる身体のコミュニティだ。(ネット社会は脳と身体を分断する)
 人々は、ネットコミュニティは望むが、直接のコミュニティは、あまり好まない。お互いの、脳化した心を気にしながら生きているからだ。確かに、人々は、どこまでも優しくなる。だが、それは仲間内だけであり、世間はあまり気にしなくなる。なぜなら、リアルコミュニティ慣れしていないからである。したがって、人々はどんどん孤独になる。巨大な脳(バーチャル)を持ちながら、萎縮した体(リアル)でうろついている。それが、心にどんな影響を与えるか、誰もそれを知らない。
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