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素人だから言えることもある

朝日の社説から相対的貧困率を考える

朝日新聞社説「15.7%の衝撃—貧困率が映す日本の危機」から

 11月4日の朝日新聞に「15.7%の衝撃—貧困率が映す日本の危機」という社説があった。
 日本の相対的貧困率は、07年調査ですでに15.7%だったと長妻昭厚労相が発表した。約6人に1人が「貧困」という事実は何を意味するのだろう。

 日雇い派遣で生計を立てる都内の大卒30代男性の生活を紹介したい。

 宅配便の配達や倉庫の仕分け作業で一日中くたくたになるまで働いて、手取りは6、7千円。結婚して子供も欲しいが、この収入では想像すらできない……。「明日の仕事もわからないのに、将来がわかるはずがない」

 「国民総中流」は遠い昔の話となり、いくらまじめに働いても普通の暮らしさえできない。これが、貧困率15.7%の風景である。

 相対的貧困率とは、国民一人ひとりの所得を並べ、その真ん中の額の半分に満たない人の割合を示す。経済協力開発機構OECD)の04年の調査では日本の相対的貧困率は14.9%。加盟30カ国中、4番目に高いと指摘されていたが、自民党政権は公表を避け続けてきた。日本が“貧困大国”となった現実に目を背けてきたのだ。(15.7%の衝撃—貧困率が映す日本の危機)

 相対的貧困率の説明はあったが、なぜかそれに対する絶対的貧困率の話が出てこない。そのままこの相対的貧困率=貧困として話が続く。池田信夫氏のブログでは、
 けさの朝日新聞に「15.7%の衝撃—貧困率が映す日本の危機」という社説が出ていて、朝日新聞の論説委員のレベルの低さに衝撃を受けた。日本の貧困率がOECD諸国で第4位だということは、当ブログでも紹介したとおり5年前から周知の事実で、政府が「それに目を背けてきた」わけではない。大した意味がないから、特に問題にしなかっただけだ

 鳩山首相もこの数字について「大変ひどい数字だ。何でこんな日本にしてしまったとの思いの方も多いだろう」とコメントしたそうだが、彼はその意味がわかっているのだろうか。OECDの発表しているのは相対的貧困率で、これは国内の家計所得の中央値(メディアン)の半分に満たない世帯の比率を示す指標にすぎない。絶対的貧困率でみると、次の図のように、日本の下位20%の人々の所得(紫色の面積)は最大である。

 この図の説明にも書かれているように、「日本の貧困層は世界でもっとも豊かである。日本の下位20%の人々の所得は、他の地域の最貧層の7倍以上である」。相対的貧困率が高いのは、高齢化によって無収入の老人が増える一方、若年層で非正社員や独身世帯が増えているからだ。日本は所得保障を企業の長期雇用や福利厚生で行なってきたので、こうした「企業依存型福祉システム」から排除される人々が増えたことが問題を深刻にしている——というのは前の記事でも書いたとおりだ。(「貧困率」についての誤解)

 一方、対照的なのは、城繁幸氏のブログだ。
若干変化球気味ながら、本日の社説で朝日が流動化に言及している。
以下、消えてしまわないように肝の部分だけ。

正規、非正規というまるで身分制のような仕組みをなくすためには、同一労働同一賃金ワークシェアリングの考え方を取り入れなければならない。正社員の側も、給与が下がる痛みを引き受ける覚悟がいる。

“身分制”という言葉を使ってくれているのはポイント高いですね。さすがリベラル!(朝日新聞、労働市場の流動化に言及)

 なぜ、このような反応に違いがあるのか。おそらく、城氏のブログは、その引用した部分に注目して、相対的貧困率についてはあまり着目していなかったのだろう。だが、そもそも政府が、「相対的貧困率」なるものを出すことで貧困対策をしますよというポーズをしているが、実はこの「相対的貧困率」は、それほど都合のよいものでなかったのだ。

相対的貧困率の構造

 そこで、garbagenews.comの「相対的貧困率」について色々と考えてみる……(4)「経済格差」は「世代間格差」!? から、引用してみる。
 若年層はグラフにあるように賃金も低い。貯蓄も無い。住宅も持ってない場合が多い。歳を経るとお金も溜まり賃金も上がり、住宅を買えるようになるかもしれない。そして定年退職を迎えると年金生活となり、再び年収は下がる……というあんばい。


 ただ、最初の「相対的貧困率」で「貧困層」に該当する割合が多い20代までと60・70代の条件を比べてみると、「若年層……正社員でも給与は頭打ち、派遣などもあわせ賃金は抑えられたまま・貯蓄は無い・住処は賃貸」「高齢者……年収は年金と退職金の切り崩し・貯蓄はそれなり・住処は持ち家の場合が多いにもあるけど、高齢者の賃貸住宅住まいが増えているのも事実)」という図式が見えてくるね。

  (中略)そもそも論として「相対的貧困率」そのものにどれほどの意味があるのか(ぶっちゃけちゃいました(汗))というのをはじめ、「相対的貧困率の拡大を懸念するなら、その主要因は世代間格差にあるんだから、子供手当の理由づけにするんじゃなくて、むしろ若年層全体の経済的支援と、高齢層から若年層へのスマートかつ誰もが納得のいく資産移動を後押しすべきじゃないの?」という考えが浮かんでくるわけだ。

 特に最初の、厚生労働省の発表リリースにもあるように、この「相対的貧困率」ってのは、可処分所得を対象に計算されているから、資産や現物給付のことは考えられていないんだな。だから例えば「自分が住む家や自動車を持っていて家賃を支払う必要は無し。財産もがっぽりある。畑仕事をしているから食べるものにもあんまり困らない。可処分所得は低いので貧困層に区分されるけど、全然生活は苦しくないね」という人も貧困率にカウントされてしまう

 「社会実情データ図録」でも言及しているけど、「日本は年齢格差が大きいから相対的貧困率も高く出るという側面があり、このことを無視して貧困度を論ずることは妥当ではない」し、「相対的貧困率」をわざわざ算出して利用、もとい活用しようとするのなら、むしろ「年齢格差・世代間格差」について積極的に動いてもらわねばおかしいよね……という話でまとめて、今趣旨の記事はオシマイ。

 ちなみに蛇足として。子供手当ての給付は「その他の現金給付」に該当するので可処分所得を上乗せさせるけど、学費無料化は相対的貧困率の改善には影響を与えないようだね(可処分所得の使い道の一つでしかないからね)。そして代わりに行われる各種減税措置の廃止や増税で、可処分所得は減るから、子供手当の給付」に連なる一連の政策では、単純に考えても目指している「相対的貧困率の改善」には真っ向から逆行することになるだろうね、きっと。さあどうしよう?(「相対的貧困率」について色々と考えてみる……(4)「経済格差」は「世代間格差」!?)

 しごく単純に考えれば、北欧諸国が「相対的貧困率」が低いのは、巨額の消費税のために、可処分所得が抑えられ、一方で、医療費や教育費を無料にすることで、高額所得者と低額所得者の「国民一人ひとりの所得を並べ、その真ん中の額の半分に満たない人の割合」が少ないからである

相対的貧困率にこだわっていると根本的な対策ができない

 さて、社説では、
 新政権が貧困率を発表したことには、現実を直視すること以上の大きな意味がある。英国などのように、具体的な数値目標を設定して貧困対策に取り組むことができるからだ。例えば、「5年以内に貧困率の半減を目指す」といった目標である。 (15.7%の衝撃—貧困率が映す日本の危機)
と語り、国民に、貧困の現状を訴えることで、対策に注目させようとしている。だが、先ほど、述べたように相対的貧困率」を減らすためには、高額所得者の収入を減らし、低所得者に支援をしなければならない。学校の完全無料化ならともかく、「子ども手当」を全員にとすると、低所得者と高所得者の相対的貧困率は変わらないことになる。
 日本企業は従来、従業員と家族の生活を丸ごと抱え、医療、年金、雇用保険をセットで支えていたため、非正規雇用の増加は、それらを一度に失う人を大量に生んだ。一方、生活保護は病気や高齢で生活手段を失った人の救済を想定していた。働き盛りの失職者らは、どの安全網にも引っかからずこぼれ落ちていった。

 貧困率の上昇は、安易に非正規労働に頼った企業と、時代にそぐわない福祉制度を放置した政府の「共犯関係」がもたらしたものだといえる。 (15.7%の衝撃—貧困率が映す日本の危機)

 確かに、日本型福祉が企業の福利厚生に頼ってきたのは事実である。それについては、「福祉と政治、何が問題なのか、改めて考える。」で、
 日本では、雇用レジームにおける雇用保障が、福祉レジームの機能の一部を代替している。この傾向は、1970年代の半ばからはっきりしてきたが、こうした雇用レジームとの連携の結果、日本の福祉レジームそのものは次のような特質を備えるにいたった。

 第一に、年金や医療保険などが公務員、大企業、自営業といったように職域ごとに分立したかたちをとったことである。これは、雇用レジームにおいて企業あるいは職域ごとに男性稼ぎ主を囲い込むしくみが形成されたことに対応している。(中略)

 第二に、福祉レジームの規模は小さかった。日本では、生活保障の軸が雇用レジームに置かれたため、社会保障支出は抑制された。(中略)

 第三に、その抑制された社会保障支出が人生後半の保障、すなわち年金、高齢者医療、遺族関連の支出に傾斜したことである。(中略)

 生活保障における雇用保障の比重が高く、したがって人生前半に関しては会社と家族が諸リスクに対応したため、狭義の社会保障は、会社勤めから退き家族の対応力も弱まる人生後半に集中することになったのである。だが、このことはいったん会社と家族が揺らぎ始めると、若い人々を支えるセーフティネットが脆弱であったがゆえに、ここに低所得リスクが集中することを意味する。(宮本太郎著「福祉政治−日本の生活保障とデモクラシー」有斐閣Insight)

 社説は、そこで「人生後半の保障」から「人生前半の保障」へと提言する。
 貧困率を押し下げるには、社会保障と雇用制度を根本から再設計することが必須である。それには「人生前半の社会保障」という視点が欠かせない。

 能力も意欲もあるのに働き口がない。いくら転職しても非正規雇用から抜け出せない。就労可能年齢で貧困の落とし穴にはまった人たちを再び人生の舞台に上げるには、ただ落下を食い止めるネット型ではなく、再び上昇を可能にするトランポリン型の制度でなければならない。就労支援のみではなく、生活援助のみでもない、両者の連携こそが力となる。

 働ける人への所得保障は福祉依存を助長するという考えも根強いが、仕事を見つけ、生活を軌道に乗せる間に必要な生活費を援助しなければ、貧困への再落下を防ぐことはできない。


 新たな貧困を生まない雇用のあり方を考えることも必要だ。企業が人間を使い捨てにする姿勢を改めなければ、国全体の労働力の劣化や需要の減退を招く。正規、非正規というまるで身分制のような仕組みをなくすためには、同一労働同一賃金ワークシェアリングの考え方を取り入れなければならない。正社員の側も、給与が下がる痛みを引き受ける覚悟がいる。 (15.7%の衝撃—貧困率が映す日本の危機)

 社説は、同一労働同一賃金ワークシェアリングの考え方を取り入れなければならない。とまで書く。だが、なぜか、社説からそれほど危機感が感じられないのはなぜなのだろうか。それは、一面では論説委員自らが、もちろん大多数の日本人もだが、日本はそれほど悪くなっていないと思い込んでいるからである。

貧困と孤立を脱するために

僕は、「転がりだしたら止まらない」で
正社員が多いうちには、なかなか言えないことでも、非正規が圧倒的になれば、今まで見えていなかったことも見えてくることがある。私たちは、永遠の坂道を下っている。
と書いた。人間は、「見たくないものは見えないし、聞きたくないものは聞こえない」というものがある。駅に、ホームレスがいても、風景にまぎれて記憶に残らないのがそうだ。見えているはずなのに、見たくないから見えなくなってしまう。特に、日本人は、他人の家や他の企業に対して、どれほどおかしくても「他人様のことだから」と口を出したがらない。逆に、貧困者の方もそうである。「助けて」といえない理由」など、自分で自分を他人からシャットアウトしたいという感情がそこにあるからである。
 経済的な困窮は、人を社会の網の目から排除し孤立させる。家族、友人、地域、会社などから切り離され、生きる意欲すら失っていく

 戦後の成長期に築かれた日本型共同体がやせ細る今、貧困を生み出さない社会を編み上げるには、人を受け入れ、能力を十全に発揮させる人間関係も必要だ。新たな人のつながりを手探りしていくしかない。その姿はまだおぼろげにしか見えないが、ボランティアやNPO、社会的企業などがひとつの手がかりとなるだろう。 (15.7%の衝撃—貧困率が映す日本の危機)

 僕は、日本人にもともと他人に対して遠慮をするという体質があるのだと思う。見てみぬふりをしてすごしてきたのだ。今回のJALの企業年金のあり方も、ひとつの企業文化であり、奇異の目にさらされている点でもある。平準化のためには、今まで隠されていた分野もさらけ出す必要がある。ところが、そうなればかえって企業に対する不信の目が生まれる。しかも、これから、ワーク・シェアリングを考えるならば、政労使の信頼と理解がますます必要なのである。
デンマークモデル(フレキシュキリティ)は、100年近くの長い年月をかけて(政労使3者合意により)構築された福祉国家を基盤にしたものであり、直ちに他国に輸出できるものではない。」(デンマーク・ラーセン教授)(独立行政法人 労働政策研究・研修機構 デンマークのフレキシキュリティと我が国の雇用保護緩和の議論)(簡単に、ワーク・シェアリングと言うけれど)
 現在のように、政労使、不信の三すくみ状態では、なかなか進まないような気がしてならないのだが。それでも、この道しかないのである。
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