大いなる力には大いなる責任が伴う
映画「アメイジング・スパイダーマン」から
映画「アメイジング・スパイダーマン」を見てきた。スパイダーマンシリーズを監督・キャストを変えて再起動(リプート)したものだという。映画上では表現されてはいないが、原作のアメコミ「スパイダーマン」と同じく、「大いなる力には大いなる責任が伴う」というテーマがそこにある。(スパイダーマンについては「バベル」と「スパイダーマン3」の2つのダークサイド参照)監督のマーク・ウェブ氏はこう言う。
「大いなる力には大いなる責任が伴う」というフレーズは、スパイダーマンのDNAに組み込まれている。この映画でもピーターはそれを学ぶことになる。ただ、それだけが彼のキャラクターを完全に定義するものではない。これは彼の成長を描いた物語なんだ。どんな映画にも「自分とは誰なのか」というテーマがある。この映画はそれをはっきりと描いているんだ。スパイダーマンは、自分よりはるかに大きなことに責任を負っている。スーパーヒーローとはそういうものだ。だからこそスーパーヒーローは皆に愛されているんだ。(「アメイジング・スパイダーマン」パンフレット)オリンピックでみんなが金メダルを求めているのは、彼らが自分たちのスーパーヒーローだからだ。自分の国のスーパーヒーローを世界一にしたい。その思いが、彼らに期待をかけ、一方でそれがプレッシャーになる。実力はもちろん、この国内からのプレッシャーへの勝負によって決まることも多い。
ネットの大いなる力
特にこのプレッシャーの多くのものは、ネット時代になり、ツィッターやメールで即座に反応する。問題なのは、これらのネットの大いなる力は無責任だということである。ライブドアのネットリサーチでこんな調査が行われた。ライブドアのネットリサーチで「いじめ加害者の実名晒す行為は違法だと思う?」という質問がされ、「思わない」が84.4%、「思う」が15.6%となった。「法律的にはもちろん違法だが、心情的と言うか、『うちの子が被害に合ったら困る』」等の視点で言うと実名晒しは仕方ないと思うんだよね」という言葉は、「総論賛成 各論反対」に似ている。たとえば、産廃処理場や葬儀社を増やすことは構わないが、自分の地域に建てては困るという論理だ。いじめっ子の名前をさらすことで、自分の学校に来ないでほしいという思いがそこにある。しかし、そのことは彼らの人生をその年齢で停止することを意味する。若いころの失敗で、彼らのイメージが限定され、修正したくても、ネットの評判が一生ついて回る。誰に、ここまでの「大いなる力」を与えたのか。「大いなる力には大いなる責任が伴う」とは、加害者の人生までも左右する力への責任まで考えないことでごまかしているというしかない。
この判断をするにあたり、提示されたのはBLOGOSに掲載された「大津市の中学校で起きたいじめの加害者の実名をさらす行為は違法性があるのか 」という記事だ。この記事では弁護士が名誉棄損罪が成立し、損害賠償責任を負う可能性について言及した。記事執筆者は「違法性はあるが、再調査の実現に繋がったと見る向きも」という問題提起をしたうえで投票が開始したわけだが、「思わない」が84.4%で、あまりにもひどいいじめの場合、名前が出るのもやむなし、と考える人が多いようである。
「思わない」と答えた人からは「法律的にはもちろん違法だが、心情的と言うか、『うちの子が被害に合ったら困る』」等の視点で言うと実名晒しは仕方ないと思うんだよね」「非公開は更生の役に立たない」「本人達もいじめではなく遊びと主張しているのだから、単に元気に遊ぶ生徒の紹介なのでは?」などと書き込まれた。
「思う」と書いた人からは「違法を承知でそれでもやっているんじゃないのか。だとしたら呆れた馬鹿さ加減と言うしかない。これを違法と思わない人間は法を語る資格ない。完全に頭のネジが飛んでる醜い犯罪者予備軍」という意見があった。(いじめ加害者実名晒す行為を違法と思わない人は84.4%)
ネット言論の劣化と大いなる責任
佐々木俊尚氏のなぜフリージャーナリストは震災後に劣化したのか?にこんなくだりがある。さらにいえば、この数年はフリージャーナリストだけでなく新聞もソーシャル化が進み、ネットでの読者からの反応を著しく気にするようになってきた。そういう中で日経がやたらと飛ばし記事を書くようになり、産経に至っては捏造としか思えない報道まで量産しつつある。新聞がこういう状況に踏み込んでしまっているのも、私がここまで書いてきたジャーナリズムの衆愚ビジネス化と無縁ではないだろう。(なぜフリージャーナリストは震災後に劣化したのか?)マスコミがネットに対応していくうちに、本来の信頼性を失い、どんどん無責任になりつつある。これなどは、今までの限定された紙という出版文化が、ネットに載ることによって、WEBメディアと競争せざるを得なくなり、「最初に言ったもの勝ち」になりつつある。また、マスコミ内のジャーナリズムの継承がうまくいってないことを意味している。
マスメディアは人から腐るでは、マスコミの分業化によって本物のジャーナリストが減っていることを小出五郎氏の著書「新・仮説の検証 沈黙のジャーナリズムに告ぐ」を引用した。
バブルが崩壊し、効率化の波が日本中を覆う。そこで経費節減と合理化を名目に、当然のことのように行われるようになったのが「アウトソーシング」だった。公共放送局も民間放送局も例外ではない。要するに番組制作の下請け化である。この「ジャーナリストもどきの大量発生」がネット時代になり、マスコミを通さなくてもとりあえずネットを通せば新しいニュースが読めるという環境になった。そうなると、信頼性はどんどん軽くなる。佐々木氏は、
(中略)
アウトソーシングで、親会社は数字の上では経費削減に成功し、大きな利益を上げることができた。それは会社の株価に反映し、経営者の評価は高くなる。もしかしたら、生産会社ならそれでいいのかもしれない。しかし、少なくとも報道、言論に携わる組織に、最も必要なのはジャーナリストの人材である。人材を育てるうえで、アウトソーシングはとても妥当なやり方とは思えない。
それまでのプロデューサー・システムが、アウトソーシングへの移行を容易にした要因であったが、結果としてアウトソーシングは、大量の「ジャーナリストもどき」を生み出すことになった。プロセスが複雑になった分、「ジャーナリスト」に属するものが激増したからである。(小出五郎著「新・仮説の検証 沈黙のジャーナリズムに告ぐ」水曜社)
マスメディアが衰退していく中で、世論の形成プロセスが曖昧になってきている。ソーシャルメディアの勃興によって世論形成はネット上にゆるやかに移行していくのでは?というのが将来像だが、現時点ではそこにはたいへんな移行期的混乱が起きているのも現実だ。この混乱を乗り越えていくためには、世論に対して触媒的な役割を果たすような存在が必要で、それはジャーナリストをはじめとするプロの言論人の仕事になってくるのかもしれない(いや、必ずしもプロである必要は無いが)。とはいえそれがどのようなかたちを持つようになるのかは、まだ明確ではない。ただの夢想の段階だ。(なぜフリージャーナリストは震災後に劣化したのか?)「大いなる力には大いなる責任が伴う」に言い換えれば、かつてマスコミには権威や信頼性があった。この信頼性とは「責任」ということである。無責任な飛ばし記事などで、責任をとれるはずもない。したがって、現状ではニュースの書き手も読み手も「大いなる力」を持っているのに「大いなる無責任」という点では同じ水準に立っている。この中から責任を持つジャーナリストが登場しない限り、「大いなる力には大いなる責任が伴う」ことは達成されない。