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素人だから言えることもある

抜き書き週刊フジテレビ批評「メディアトラブルとジャーナリズムのあり方」

最近連続してマスメディアの事件が連発している。僕は、このエントリーで、読売新聞のiPS細胞移植問題を取り上げた読売新聞「iPS細胞心筋移植」誤報の原因および日本のメディアがなぜ誤報の問題よりも犯人叩きが大事なのか、橋下市長と週刊朝日の問題を取り上げた週刊朝日の謝罪〜ジャーナリズムは官僚主義と矛盾する、尼崎変死事件の写真取り違え問題を取り上げたなぜ、日本のマスメディアは裏取りが下手になったかなど、これら一連の事件の裏にはマスメディアがジャーナリズムの組織になりきれず、旧態依然とした官僚組織そのものが顔を出しているという指摘をした。

今朝、5時から放送されたフジテレビの「新・週刊フジテレビ批評」の「クリティックトーク」でも、この3つの事件の背景に触れているので資料として取り上げたいと思うので書き起こしてみた。ただ、聞き取りにくい部分があり、その部分は(?)とした。なお、この番組については今年の5月に、抜き書き週刊フジテレビ批評「日本人社会の言論とマスメディア」でも取り上げたので参考にしてほしい。

<VTR>

橋下市長 「週刊朝日」のあの記事は、全人格否定、すべての人格を否定する根拠としてのDNA論を持ち出して、これはやっぱり違うと。

NA 橋下徹大阪市長のプライバシーに関する週刊朝日の連載記事を巡り、朝日側は謝罪の上、連載の打ち切りを発表、急展開の幕切れとなった。
一方、読売新聞に端を発したiPS細胞移植に関連した誤報問題、いくつかの新聞や通信社、テレビも後追い報道で事実と異なる内容を伝えた。
さらに、尼崎の連続不審死事件では、多くのメディアが容疑者の顔写真を取り違えた大失態を犯した。
相次ぐメディアによって引き起こされる不祥事、こうした問題はどうして起こってしまったのか。また、信頼回復のため、今、メディアに何が求められているのか。今日は、メディア倫理の専門家である、青山学院大学法学部教授の大石泰彦氏とともに、「メディアトラブルとジャーナリズムのあり方」をテーマにCritique TALK!

<スタジオ>

奥寺健キャスター テレビの現在や未来を様々な角度から掘り下げるクリティックトーク、今朝は、青山学院大学教授の大石泰彦さんにお越しいただきました。おはようございます。

大石泰彦 おはようございます。

西山喜久恵アナウンサー おはようございます。

奥寺 よろしくお願いいたします。

大石 はい。

奥寺 今日のテーマは、「メディアトラブルとジャーナリズムのあり方」です。ええ、大石さんは、メディア倫理、メディア法制を専門に研究なさっているんですけれども、このところ、メディアにおける一連の問題ですが、今のVTRにありましたが、どういうふうにご覧になりましたか。

大石 起きてはならないことが起きたというよりはですね、これを機にメディアのありかたというのを、もう一回議論してみるいいチャンスといえるんじゃないかなと私は考えています。

奥寺 そのように捉えていかなければいけないということですね。

西山 そこで今日は、大石さんに一連のトラブルを踏まえて、ジャーナリズムのあり方について4つのキーワードを上げていただきました。それがこちらです。
(1)人間力を養う
(2)魅力的なメディアであれ
(3)受け手のニーズを見極める
(4)倫理を丸投げにしない

ということです。

奥寺 一つ一つ行きたいんですけれど、まず、この人間力を養う、これはどういうことですか。

大石 たとえば、iPSの誤報問題ですね、それから、それは読売や共同通信が何で、森口氏が出してきた情報をちゃんとチェックできなかったのかなって、ちょっと驚きではあるわけですね。で、取材するっていうのは、単純に考えると情報を取ってくる、な感じでとらえがちなんですけれど、やっぱり、事、物事を取材すると同時に人を取材することだと思うんですね。人を見るっていうことで、もちろん、記者やジャーナリストっていうのは、人に会うってことですね。これが基本にならなきゃいけないわけです。人を見るってことですね。それがちょっと、私は劣化しているんじゃないかなという気がするわけですね。今、若い記者っていうのは、ネットやケータイで簡単に情報取ってくる、簡単かどうかわかりませんが、情報取ったり連絡取ったりしますね。でも、取材っていうのは、それだけのものではない。情報取って来るだけのものじゃないと思います。やっぱり、人に会って、人を見るということですね。情報処理能力がもしかしたら、若い記者は長けているのかもしれないけれど、なんか、ちょっとツルっとしている印象があるんですね。なんていうのかな、私なんか思うのには、メディアやジャーナリズムの世界は、ザラっとしたものというのかな、人間的な感触というものが、こうすごく大事なものだと思うわけですね。それが何か、ツルツルっした感じを持つわけです。これは本当に印象なんです。で、取材っていうのは、考えてみるとなかなか難しいことで、相手にお金を払うわけではなくて、材料を取ってくるわけですね。そこではやっぱり、取材対象者ですね、この人がどういう人間なのかを観察して、その内側に迫る力を持つっていうことですね。これがすごく大事な要素となってくると私は思うんですね。ただ、そのザラっとした力というのかな、そういうものを、場合によっては瞬時に反応しなければいけなかったりするのが取材ですから。そういう人をどういうふうに作っていくのか、そういう人をどういうふうに育てていくのか、ってことが私は、やっぱりメディアにとって大きな課題になっていくんじゃないかなと、そういう印象を持っています。

奥寺 特に、このiPSのことは、すごく専門的な事でもあり、ただその世界からの人が「あれは、違うでしょう」とすぐに答える内容でもあったわけです。

大石 広い人間関係を持っていることが大事だと思うんですね。一人の人だけで、おおって突っ込むんじゃなくて、いろんな人にあたって、それでいろんな人を見る中で、人間力を作っていく。情報の分析だけではない。取材って、人に会って、人の姿と一緒に取って来ると私は考えています。その辺がちょっとどうなのかな、人が育ってきているのかなとちょっと心配なところです。

奥寺 それが最初のところ。

江川紹子 背景としてですね。工場など生産現場だけじゃなくて、あらゆる場所で、スピードとか効率だとか、そういったものが求められてることがありますよね。無駄が嫌われると。本当は、テレビとか新聞とか出版とか言うのは、実は無駄をいっぱいしてその中からそれこそ人間力を養っていく、ということがあると思うんですけれど。それが非常に今、経済状態も含めてですね、やりにくくなっていると。これをどうするかというと、個々の人の努力だけでなく、全体的な、

大石 業界として、人を育てていくのかというのがすごく大きなことだと思いますね。若い人にいろんな経験があり、いろんな立ち位置でものを見るということ、そういう機会を与えていかなければいけないし、情報を細切れでとっていくだけじゃなくて、ある人に密着して取材していくということ、そういう経験をさせていく、そういうことも大事なことだと考えます。

西山 二つ目ですね。

奥寺 二つ目は、魅力的なメディアであれです。

大石 そうですね。私が若いころ、学生の頃っていうのは、30年くらい前ですけれど、その頃はジャーナリストとか、テレビの製作者というのは、本当に憧れる仕事だったわけですね。ところが私が大学で、学生に接しているとですね、だんだんそのメディアに対する魅力っていうのか、憧れっていうのがやや低下しているのかなっていう感じはすごくするわけですね。私、メディアに関する、ジャーナリズムに関する授業してますけれど、一番、受ける授業は何かというと、メディアを叩いている授業なんですね。メディアの問題点とか、メディアはこんなとんでもないことしてますとかやると学生は反応してくるわけです。私としては、それだけではなくて、ジャーナリズムが大事な役割を担っていて、そういう面を同時に伝えたいと思っている。なかなかそっちには反応してこない。そういうこと、すごく思うんですね。ただね、私が、学生を見ていると、とはいえ憧れって残っていると思うんですね。メディアに対するあこがれが。これってすごく大事で、憧れをどうやって維持していくのか、メディアは考えてほしいと思うんですよね。やっぱり、憧れの理由は何かというと、人間、どういう人に魅力を感じるかというと、すごく面白そうっていうのかな、ハチャメチャの部分でやる部分と、しかし、使命感に燃えて、これは(?)越えてやらなきゃいけない部分と両方持っているところがメディアの大きな魅力だったと思いますね。これはどちらが欠けても魅力がなくなって来ると思うんですね。どちらも大事にしていってほしいし、それがいい人材を集めていくっていうこと。それが光源になると思うんですね。両方ともしっかりしていて、両方とも熱気がある状態、これをどういうふうに作っていくのかってことですね。それを、私は、組織やシステムでやるって、つまり、企業が現場を(?)する形にするってやっぱり問題があるんじゃないかと思います。やっぱり、個人というものを一人一人の個人というものを、単なる社員じゃなくてね、ジャーナリストである、あるいは制作者である、プロとしてのプライド、彼らの個人としての判断や個人としての思いや、テイストをどうやって生かしていくのか、そういうことを考えていくのが、熱気を維持する大事なことだと私は考えているわけですね。
メディアは多くの人の目にさらされていくわけですからね。批判を受けるわけですね。だからといって、委縮してね、こうやったら問題になるんじゃないか、こうやったらいっぱい抗議が来るんじゃないかと、あんまりそういうふうになりすぎると、やっぱりメディアの魅力って失われていくんじゃないかなと思います。あえて、失敗する勇気、あるいは暴走する覚悟、そういうものをあえて、一般的な感覚から一線を越えてみるようなもの、そういうところを大事にしていかないと、長期的には失うものが大きいんじゃないのかなと、そういう気がしています。

西山 先生ご自身は、今のテレビに熱気とか、そういうのを感じて。

大石 そうですね。私の場合は、テレビと、ジャーナリズムというのは、ある部分ではいい場合、ドキュメンタリーとか、今日も紹介されましたが、あるのは知ってますが、なかなかそういうものがですね、テレビがそういうことをやってるなと思っても目がいかない、テレビがそういうものをもっともっと、出していって、こういうことをやってるんですよとしっかり訴えていく。そういうことが大事。どうも、テレビのジャーナリズムというと、ニュースを我々見ますけれども、細切れ感というのがあるわけですね。人に密着してる感覚があまりなくて、情報を按配して、一つ一つが非常に食い足りない、次の局面、次の局面、確かにメディアはそういうもんですから、しょうがない部分もありますけれど、しかし、もっと粘っているような感覚、ジャーナリズムの面で人間に対する好奇心、のようなものを感じさせるようなね、そういうものをもっと出していくと、私はいいのかなと思っています。

西山 そして三番目。受け手のニーズを見極める。これはどういうことなんでしょう。

大石 尼崎の事件ですね。容疑者の顔写真の取り違えという。各社ともお詫びしたりですね。だけど、私は、本当に顔写真を出す必要があったのか、顔写真をそれほど視聴者が求めているものなのか、ちょっと疑問なんですね。もちろん、取り違えというは、間違えられた人にとっては大変なことですから、お詫びすることは当然なんですけれど、しかし、社会全体が大変なことになってるかというと、どうなんだろうってちょっと思うわけなんです。私は、そこが一種の片思考みたいになっていて、顔写真はあるものだ、顔写真は大切なものなんだ、そういう面があるかもしれないけれど、受け手側が本当にそういうものを欲しているのか、っていう、十分な確認をしないまま出すっていう、そこまで必要あることなのか、やっぱり突き詰めて考える必要があると思うんですね。犯罪報道そのものはすごい大事なことだと思っていますが、ただ、なんか犯罪報道のメディアがやっている努力のポイントがずれてはいないか、もっと違う、犯罪の核心にある何が犯罪を生み出しているのかという、そういうことに迫っていくような。そういうことが、やっぱり、メディアがやるべきことだと考えています。

奥寺 江川さん、どうですか、この顔写真は。

江川 そうですね。事件にもよると思うんですけれども、やっぱり、視角的な情報としては、意味があって必要とされていると思うんですね。やっぱり、人間の顔って人生だとか、その人の人間性が刻まれることがありますし、その事件の背景とか、あるいは今回のようにたくさんの人たちが支配されてるごとく動いていると。そういう人間の関係性を考えていくときの材料になるということがあるので、私は不要とは思わないですね。ただ、写真に関して言うと、よく使われるのが、集合写真からとってきた、固定した映像の他にですね、逮捕される、送検される時の、映像がいつまでも使われるってありますよね。それはね、私はどうなのかなと思うことがあります。あの、それよりもむしろ、裁判が始まれば、裁判所の中で普通の、身なりを整えた形のですね、映像を取る機会があってもいいんじゃないか。逮捕された、送検されるというときは、本人も非常に緊張したり、険しい表情ですよね。あるいは部分的に顔隠していたりとか。そういうようなことがあって、いかにも怪しそうな映像になることもあるんですね。それよりも、本人が了解した場合に限るわけですけども、法廷でしたら、ちゃんと身なりを整えて検察官と対峙してる部分が出てもいいんじゃないかなと思います。

大石 確かに、私は、高校時代の写真とかありますよね。30いくつかの容疑者ですと、高校時代の写真とか。見せられて何の情報になるのかなと思うんですよ。

江川 それはありますね。

大石 ですから、おっしゃるように、ある場合には、法廷でもとれるかとか、大事かなと。

奥寺 それから4つ目行きましょう。倫理を丸投げにしないという、これについては。

大石 週刊朝日は、連載を打ち切ったあとに、朝日の第三者機関に検証を任せるというわけですね。これは、なんか、私としては腑に落ちないところがあるんですね。それは、連載中止をして、第三者機関にゆだねるということが、これが一体なんだったのかということが、我々にとってまったく、萱の外っていうかですね。全然判断できないっていうことが。それでいいのかなっていうことが一つと、もう一つは、倫理ってのは本来ですね、高校の倫理って科目がそうだったですけれど、あるべき人の生き方っていう意味。だから、生き方っていうから、メディアが自分たちで検証していかないと、いけないことだと。これは、外注したり、丸投げしたりはできないことだと。私はそう考えているわけですね。あえていえば、ジャーナリストっていうのは、人を相手の仕事ですから、失敗っていうのは必ずあるわけですね。失敗しないようにするのがいいジャーナリストではないし、いいメディアではないと私は思っているんです。ただ、失敗した時に、それをどういうふうに失敗と向き合うか、失敗をどういうふうに検証していけるのか、ことがジャーナリズムの非常に重要な点だと私は考えています。その失敗の検証というのを、確かに第三者の力ってありますけれど、今回のように外部の委員会に丸投げしてしまうような形っていうのは、自分たちはそれについて特にメッセージを発しないというのは、どうなんだろうかと私は非常に疑問、それで専門職としてのジャーナリストと言えるのかっていうことがすごく疑問なんです。間違いは起きるわけです。負の遺産をどういうふうに継承していくのか、自分たちで、失敗した、それを検証した、これを失敗の経験として未来に残していくというようなことをやることが、やっぱり、メディアの責任じゃないか。簡単に、第三者に投げました、検証をお待ちしていますというだけでは、ちょっとどうなんだろう。そういう失敗込みで考えるということが、さっき言ったツルっとしちゃわない、つまり失敗を恐れてね、ザラっとした感触を残すように大事な事なんじゃないかなと思います。

江川 もちろんね。自己検証ということはとても大事なことだと思います。だけども、同じ会社の同じ風土の中にずっといると、気が付かない問題なんかもあるので、他者の目を入れるということ、第三者の検証というのは、私は非常に意味があると思うんですね。特にまあ、一連のいろんな問題、特にiPSのあれだとか、写真の取り違えなんていうのは、一社の問題じゃなくて、連鎖的に起きてたりするわけですよね。そうなるとやっぱり、業界の問題だと思うんですよ。ですから、例えば、新聞業界なんか指導して第三者機関を作って、いろんな会社の方に、この会社はどうしてこういう失敗をしたのか、失敗してないところもあるので、ここはどうして失敗せずにすんだのか、そういう両方を見れるような第三者による検証というのをやってですね、この教訓というのをみんなが共有化していくということも私は大事じゃないかなと思います。

大石 外国の第三者機関ていうのをモデルにして日本の第三者機関ができているわけですけれど、外国の第三者機関はジャーナリストの代表も入っているわけですね。外部の人だけで判断するというのは、例えば、医師の倫理を判断するのに医師のいない場で判断したり、弁護士の倫理を弁護士のいない場で判断するのはやっぱりおかしいと思うんですね。私は、第三者機関の役割はあると思いますけれど、それはやっぱり今の形ではまずいんじゃないかなとは思っています。

奥寺 最後に一言、テレビの今後ね、あるべき姿について、まとめていただくと。

大石 私はですね。テレビ、よくバラエティーなんかも、いつもよく出ていますけれど、いろいろ批判のあるところだと思いますが、ある部分はね、私はテレビはハチャメチャな部分があってもいいと思っている。そこをあんまりきれいにしちゃう、ツルっとさせちゃうのは良くないと思っていて、行儀が良ければいいってもんじゃない。ただ、しっかりやる部分はしっかりやる。人が何と言っても、しっかりやると。その両方がないと、ハチャメチャも輝かないと思うんですね。そういう真面目な部分、すごく純粋な部分と、ハチャメチャにまた純粋に、面白さを追求していく部分と、その両方があることが、競争していることが、私は長い目で見て大事なことだと。両方ツルっとしちゃわないでほしいと。こういうふうに思っていますね。

奥寺 今日は、青山学院大学教授の大石泰彦さんに話を伺いました。どうもありがとうごさいました。

西山 ありがとうございました。
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