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素人だから言えることもある

ブロガーのスキル

ブロガーと記者

 「ブログとニュース、この相反するもの」を書いたが、それでは記者とブロガーのスキルについても考えてみた。おそらく記者はスキルが必要だが、ブロガーにはスキルが必要ないと誤解している人もいるだろう。スキルがあるからこそ、ブログは続くのであり、スキルがないからこそ、ブログは続かないのだ。

 例えば、記者が組織に属し、プロとして給料をもらうのに対し、ブロガーはほとんど無給で自分の書きたいものを書いている。プロと素人の違いかも知れない。でも、人によっては、記事よりもブログの方が価値的なものがある。湯川鶴章氏の「ブログがジャーナリズムを変える」で、次のような文章があった。

 それでも次のようなコメントが寄せられることがある。「足で情報をとってこなければジャーナリズムではない」「新聞記事を論評する程度のことはジャーナリズムではない」などといったコメントだ。別の言い方をすれば、「ジャーナリストは人のとってきた情報について、ああだこうだ言うのではなく、自分の足で人に直接会って情報をとってくるべきだ」ということになる。

 つまり、職業的にはフリーだけでなくアマチュアまで含めてもいいが、自分で取材しなければジャーナリズムではないという考え方だ。


 ただ、そう考える人は少数派で、多くの人は「プロのジャーナリストの中にもあまり取材せずに評論を活動の中心にしている人もいるので、評論だけのブログもジャーナリズムと認めてもいいのではないか」と認識している。(湯川鶴章著「ブログがジャーナリズムを変える」NTT出版)(ブログ・ジャーナリズムは誕生するか)

 「自分で取材しなければジャーナリズムではない」ということになれば、記事に対して論評もできなくなってしまう。したがって、論評のブログもジャーナリズムに認めてもいいのではないかと言う話である。そもそも、新聞記者は新人のころは、自分で取材するが、管理職になれば記者が集めた記事の編集をしたり、コラムを書いたりする。もし、「自分で取材しなければジャーナリズムではない」を忠実に守れば、彼らもジャーナリストではないことになってしまうのである。

 一方、佐々木俊尚氏は、マスコミの分析力が弱くなっているのではないかと言う。

 記事というコンテンツは、「一次情報」と「論考・分析」という二つの要素によって成り立っている。新聞社は膨大な数の専門記者を擁し、記者クラブ制度を利用して権力の内部に入り込むことによって、一次情報を得るという取材力の部分では卓越した力を発揮してきた。だがその一次情報をもとに組み立てる論考・分析は、旧来の価値観に基づいたステレオタイプな切り口の域を出ていない。たとえばライブドア事件に対しては「マネーゲームに狂奔するヒルズ族」ととらえ、格差社会に対しては「額に汗して働く者が報われなければならない」と訴えるような、牧歌的な世界観である。

 このようなステレオタイプ的な切り口は、インターネットのフラットな言論空間で鍛えられてきた若いブロガーから見れば、失笑の対象以外の何者でもない。彼らは新聞社のような取材力は皆無で、一次情報を自力で得る手段を持っていないが、しかし論考・分析の能力はきわめて高い。ライブドア事件にしろ格差社会問題にしろ、あるいはボクシングの亀田問題にしろ、読む側が「なるほど、こんな考え方があったのか!」と感嘆してしまうような斬新なアプローチで世界を切り取っている。

 今の日本の新聞社に、こうした分析力は乏しい。論考・分析の要素に限って言えば、いまやブログが新聞を凌駕してしまっている。新聞側が「しょせんブロガーなんて取材していないじゃないか。われわれの一次情報を再利用して持論を書いているだけだ」と批判するのは自由だが、新聞社側がこの「持論」部分で劣化してしまっていることに気づかないでいる。ブロガーが取材をしていないのと同じように、新聞社の側は論考を深める作業ができていないのだ。(佐々木俊尚著「ブログ論壇の誕生」文春新書)(読売新聞「新聞が必要 90%」の謎)

 取材力はないが、論考・分析力についてはブロガーの方が優れているという論調である。近著の「電子書籍の衝撃」でとりあげた、「これからのジャーナリストに必要なスキル」の中であげられた
(1)的確なタイミングで的確な内容のコンテンツを的確なスキルを駆使し、多様なメディアから情報を発信する能力。

(2)多くのファンたちと会話を交わし、そのコミュニティを運用できる能力。

(3)自分の専門分野の中から優良なコンテンツを探してきて、他の人にも分け与えることのできる選択眼。

(4)リンクでお互いがつながっているウェブの世界の中で自分の声で情報を発信し、参加できる力。

(5)一緒に仕事をしている仲間たちや他の専門家、そして自分のコンテンツを愛してくれるファンたちと協力していく能力。(「電子書籍の衝撃 本はいかに崩壊し、いかに復活するか?」ディスカヴァー携書) )(マスメディアの「マス」が消えるとき)

のうち、(1)(3)などはまさに論考・分析能力ではないか。また、残りの(2)(4)(5)などは、Twitterやメルマガなどを通しての読者とのコミュニケーション能力だろう。これなどは、もっともマスコミが苦手とする分野である。

ブログをメディア化する

 これらのブロガーのスキルを身につけるにはどうすればよいか。もちろん、僕自身はそれほど優れたブロガーではないので、想像するしかないのだが、数を書くしかないと思っている。続けていくと、ブログに段階があることは、次の文章でもわかる。
 「みなさんブログやってますか?」。FPNの徳力氏の問いかけに、会場に詰め掛けた100人ほどの参加者のうち約半数が手を挙げた。徳力氏は続けて、「自分のブログがメディアだと思いますか?」とも質問。こちらは一転、会場からの反応はなかった。

 「これがソーシャルメディアといわれるブログの長所と限界なんです」と徳力氏。「ブログを始めるのはたやすいが、始めたブログをメディア化するのは難しい」という。ブログには3段階あるというのが徳力氏の持論だ。まず、自分のためのメモなどから始める極めてパーソナルな段階。続いて、少人数の読者と仲間感覚でコミュニケーションする段階。最後が1日1500ページビュー以上稼ぐメディアの段階だ。

 特に難しいのが、コミュニケーションからメディアに移る段階である。知り合いや近しい読者10人ぐらいに向けて書いているときであれば、読み手も書き手を知っているため、記事に問題があったとしてもそれほど大きな問題にはならない。ある種、読み手と書き手の間に信頼があるわけだ。しかし、そんなブログに2ちゃんねるなどからリンクを張られて、書き手と知り合いでない不特定多数が見にくると炎上する可能性もある。「オレの言っていること分かるでしょ? が通じなくなる」(徳力氏)のである。

 たとえメディア化に成功したとしても、ビジネスとしてのブログは簡単ではない。徳力氏によれば「米国と比べると広告単価はひと桁もふた桁も違う」という。「ブログで儲けるのは難しい。だが、ブログで儲けようとしない人には有力なツールになる」。つまり、別に本業があってその宣伝や広報活動にブログを利用することなどは効果的なのだ。「既存のメディアビジネスとは異なる見方をしたほうがいい」という。(新聞はなくなる? ブログはメディアになれる?リンク切れ)(ブログに関する3つの話題)

 このブログのメディア化とはなにか。そして有力なツールとは何か。リンク切れなので、元の記事には戻れない。それでも、漠然としたイメージはあろう。僕は、次の文章に辿り着いた。
橋本 私にとってブログは大学院みたいなものだなあと思うことがあります。毎日学習ノートを公開している書生みたいな気がします。5年半で1100冊以上の本をレビューしましたが、勉強になったというのが実感です、ブログが人気になったとか、他者に影響を与えたということよりも、知識の量や構造が増えて、視野が広がったことの方が自分にとっては大きいです

いしたに ただの知識じゃなくて知見ですね。

橋本 毎日テーマが1つあるのがいいです。実世界でなにも達成できなかった1日でもブログは残る。積み上がる。1日1記事で年間365記事。少なくとも何らかの思考のログが残る。

いしたに 積み上げを実感されたのって、どのぐらいの時期からですか?


橋本 やはり1000本超えるあたりですねえ。

いしたに 1000本(笑)

橋本 過去ログが何を検索してもひっかかるようになる。自分で書いたんだけど忘れていた知識が見つかって、これは便利だなと。自分データベースです。

いしたに 外部記憶がDBとして機能してくる感というのはありますね。そうか、そのボーダーが1000なのかも。(ブログは1000記事を超えると何かが変わる/橋本大也さんのブログ論(第11回))(1000本続ける!)

 これは集団で動いているマスコミには決してできない能力である。何しろ、インターネット全体が自分用のデータベースに変わるのだから。
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