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素人だから言えることもある

「グレート・リセット」という幻想

日経ビジネス・オンラインで小田嶋隆氏の「ハルマゲドンと「グレートリセット」という願望」を読んだ。主題は、オウムの平田信が自首したことから始まって、オウムの「ハルマゲドン」と橋下徹氏の「グレート・リセット」構想を批判しているが、その中でリンク先に示している石橋湛山の言葉が面白かった。

「記者の観るところを以てすれば、日本人の一つの欠点は、余りに根本問題のみに執着する癖だと思う。この根本病患者には二つの弊害が伴う。第一には根本を改革しない以上は、何をやっても駄目だと考え勝ちなことだ。目前になすべきことが山積して居るにかかわらず、その眼は常に一つの根本問題にのみ囚われている。第二には根本問題のみに重点を置くが故に、改革を考えうる場合にはその機構の打倒乃至は変改のみに意を用うることになる。そこに危険があるのである。

これは右翼と左翼とに通有した心構えである。左翼の華やかなりし頃は、総ての社会悪を資本主義の余弊に持っていったものだ。この左翼の理論と戦術を拒否しながら、現在の右翼は何時の間にかこれが感化を受けている。資本主義は変改されねばならぬであろう。しかしながら忘れてはならぬことは資本主義の下においても、充分に社会をよりよくする方法が存在する事、そして根本的問題を目がけながら、国民は漸進的努力をたえず払わねばならぬことこれだ」
(「改革いじりに空費する勿れ」昭和11年4月25日『東洋経済』社説)。(田中秀臣「二・二六事件と“改革病”」 )

そして、橋下徹氏の構想
「大阪の自治の仕組み」、「市役所の仕組み」を変えることを通じて大阪から国のかたちを変えていきます。今日の日本が抱えているさまざまな課題。その根底にあるのは、国と地方の間の「無責任なもたれあい」の構図です。

地域のことは地域が決める。これが地域主権です。住民に最も近い地方自治体が、地域の実情に即して自ら主体的に決定する。そして、国の仕事は国の財布で。地方の仕事は地方の財布で。国と地方が、それぞれ自ら決定した施策については、自らで権限と財源と責任を持つ。権限と財源と責任の所在を一致させる。あいまいな国と地方の融合ではなく、分離。私は、これが目指すべき「国のかたち」だと考えております。

ですから、大阪の再生のため、大阪のことは大阪が決める。そして、大阪が責任を持つ。大阪にふさわしい大都市制度を大阪から創り上げ、全国に発信していく。資本、統治機構、大阪の統治機構については、大阪自らが創り上げていかなければなりません。そのことにより、一歩ずつ、私が目指す「国のかたち」に近づいていけるものと確信しています。

まずは、危機感を持つことです。皆が、その危機に向き合い、解決に向けた課題を共有することで、新たな発展に向けた展望が開けていきます。古い制度やシステムを捨て去り、創造性やイノベーションで社会を立て直す。まさに今、大阪で、この「グレート・リセット」が起きようとしております。ぜひとも、またとない、このチャンスをものにしなければなりません。(<橋下大阪市長>施政方針演説(4)=グレート・リセット)
小田嶋氏は、このように切って捨てる。
気持ちはわかるが、ここで述べられているあれこれは、石橋湛山が言ったところの「根本病患者」の症状そのものに見える。

小さな不具合や、ちょっとした不調は、その都度修理して対応すれば良い。私たちは、ふだんの日常生活をそうやって運営している。部屋の隅に積もった綿ぼこりは掃除機で吸えば消えるし、机の横に積み上がった週刊誌の束は、一定のタイミングでリサイクルにまわせば良い。ウィンドウズが重くなったらとりあえず再起動。ネズミが出たらおまじないを言う。そうやって、日々は、大過なく過ぎて行く。

だが、故障箇所が随所に目立つようになり、ほころびや傷みが部屋中を覆うようになると、ある人々はヒステリー症状を呈するに至る。すなわち、「断捨離」を叫び出すのだ。生活の中からあらゆる不要物を排除し、完全にクリーンな環境を作れば、人生それ自体が新しいフェーズに入るとかなんとか、ヤケを起こした人たちはそういう極端なことを言う。掃除なんかで人間が生まれ変わる道理は無いのに。

より甚だしい向きは、
「いっそ新しい部屋に引越しましょう」
「こんな家は壊してしまえばいい」
ぐらいなことを言い出す。
ここまで来ると終末思想とそんなに変わりがない。

オウムの言っていたハルマゲドンは、終末思想である以上に、自分たちが世界の根本を組み替えるという、グレート・リセットを含んでいた。 (ハルマゲドンと「グレートリセット」という願望)

いささか乱暴なというか、オウムのハルマゲドンは、自分たちにとって都合の良い社会であり、橋下徹氏の「大阪維新」の構想は、少なくとも大阪市民の気持ちを汲んでいた点で同列に扱うものではないだろう。政治家が、単なる修復ではなく、根本的な改革を目指すべきなのは当たり前のことだと思う。

ともかくこの「根本病患者」について考えてみたい。僕は、イージス艦の衝突事故・日本人の敵は日本人で、映画「亡国のイージス」(原作 福井晴敏)を監督した樋口真嗣氏の言葉を引用している。

第二次大戦とはいっても、戦う相手はアメリカではなくて、同じ日本人にしようと決めていました。現在の日本を裁こうとする人間と、それを守ろうとする人間の話に。今の日本を見ていると、自分にも二つの気持ちがあるんです。「何でこんなになっちゃった」という思いと、「それでも生きていかなければ」という思い。その両方の戦いにしたかった。福井さんの小説は、実は全部そうだと思うんです。(「ダ・ヴィンチ」2005/6月号)
この「何でこんなになっちゃった」「それでも生きていかなければ」の言葉をテロリズムと神、幕僚長の奇妙な思想で、僕はこうまとめている。
人を裁くために、宗教や過去の都合のよい事実を並べ立て、一気に殲滅してしまおうとする「何でこんなになっちゃった」=現代社会はもうだめだから破壊して、新しい自分に都合よい社会を作ろうというテロリズムの論理と、「それでも生きていかなければ」=確かに世の中には悪いことが一杯あるけど、少しずつでもよくしていこうという守る側の論理がある。
小田嶋氏は、橋下徹氏の「グレート・リセット」を前者の論理で捉えていた。だが、オウムのように、先が見えない破壊なのか、それとも古い制度を破壊し、新たな来るべき未来が見えているのか、橋下氏の構想が僕はまだ、「それでも生きていかなければ」に傾いているように見えてならない。ところで、巷で話題になった「グレート・リセット」という本だが、僕は、現在、図書館で予約中なので、手に入れたらエントリーを続けたい。
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