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素人だから言えることもある

「たけしの欽ちゃん評」(「新春TV放談2013」後半部分補足情報・5)

前項「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の謎(「新春TV放談2013」後半部分補足情報・4) において、浅草キッドとの対談集「濃厚民族」(スコラマガジン)から引用したが、ビートたけし氏が萩本欽一氏についてどう考えているかの対談があり、これもまた興味深い話があったので引用したい。

水道橋博士(以下博士) 続いて萩本欽一さんも対談に出ていただきました。僕らも浅草フランス座の後輩ということで、初めてお会いしたんですけど。殿との関係は?
ビートたけし(以下たけし) フランス座でいやあ、そりゃあ先輩後輩になるんだろうけど時代が違うよ。クロスしてないし、やっぱりコント55号はテレビで見たよ。出てきたときは面白くてしょうがなかったなあ。その後『欽ドン』でアイドルを使って、ハガキを読み出したところで嫌になったなぁ。毒がなくなったというか、55号をやっていたときは、坂上二郎さんをイジメまくってたのがかなり面白かったな。よく考えりゃあ萩本さんがテレビバラエティを金になる仕事っていうかステータスを上げたのは間違いないんだけど、芸事がテレビに迎合する形を作ってしまったって気がするなぁ。そのあとの漫才(ブーム)ってのは絶対、迎合しなかっただろ。てれびとは関係なく舞台をやったから。その代り萩本さんは長続きしたけど、漫才ブームは長続きしなかった。それはテレビに合せなかったからなんだけど。
玉袋筋太郎(以下玉袋) 殿がのし上がって行く時代に、萩本さんの全盛期に当たって、レギュラー番組の視聴率を足すと「視聴率100%」という時代があって、それを殿が「あんな視聴率取っちゃいけない」と批判していた時期がありましたけど。
たけし 誰にでも受けるようなものじゃしょうがないだろ。大衆ってのは一瞬にして「あいつダメだ」ってことになりかねない。庶民ってのはそういうもんだよ。さんざん持ち上げといて、後で引きずりおろすという。それはごく普通の人たち。それは普通の人たちの特権でもあるんだよ。その怖さを俺は良く知っているから。絶対、一部でいい。一部だったらしっぺ返しは少ないからね。5人で持ち上げてくれたら、落とすときも5人だけど、10万人に持ち上げられて、10万人に落とされたら死んでしまうぜ。
博士 萩本さんとは個人的にお会いしたことはあるんですか?
たけし いや、すれ違ったことはあっても挨拶はしなかったな。会釈する程度だよ。
博士 萩本さんって実は毒気もあるし、性格も強烈な人なんだけど、一時、「24時間テレビの欽ちゃん」というイメージが浸透してしまいましたね。
たけし お笑いは1番暴力的で1番残酷なんだから。そういう人たちが『愛は地球を救う』なんて言っちゃあいけないんだけどな。
玉袋 今年もまた山田花子が24時間マラソンに挑戦しますけど、そういう時代になっちゃったんですね。
たけし 走ってどうするんだって(笑)。アフリカのミルクも飲めないで死んでいく子供たち24時間撮った方がよっぽど感動するだろ。走った後に「やれば何でも出来るんだって思いました」出来るわけないだろ、バカヤロー。ただ走っただけじゃねぇか。走ることが出来ると思うならいいけど、一生懸命やれば何でもできると思いましたって。そういうマヌケな自信を付けさすのはよくない。
博士 萩本さんといえば下ネタ厳禁の「欽ちゃんファミリー」を作って、お茶の間に“デオドラント”された笑いを提供して、その一方で、殿が作った下ネタしかやらない「たけし軍団」っていうのは対照的なんですけど。
たけし 失礼なこというな(笑)。下ネタ以外にも、ネタあるよ。ただ、つまんないだけだけど(笑)。そういう芸事っていうのは意識じゃなくて、持っている生理だから。俺の生理はそっちだというだけで、もともと違う人なんだよ。お笑いに対する感覚が。下ネタが好きだけどやらないということはない。お笑いはいいと思ったことは何でも手を出すんだから。でも萩本さんは下ネタに興味がなかった。逆に俺は萩本さんの最後の方にやっていたネタには興味がなかった。世の中には受けてたけど、それだけだよ。
博士 でも、今回根っこの性格は「欽ちゃん」という感じの人ではないのだなと対談させてもらって感じました。すごく偏執狂的なところがあって、まあ芸人はそうじゃないと売れないとは思うんですが。
たけし 山田洋次さん(大阪府豊中市生まれ)が下町なわけねぇっていうのと同じだろ。要するに自分にないものに憧れたり客観的にみられるんで、そっちのほうが感づくというか、自分の本質的なことはやりたくないんだよ。だから、俺なんて下ネタとか、ガンバルマン的なことをさんざんやってきたから、本質的にはいい人かもわかんない(笑)。自分にないところを求めてるわけだから。
博士 根っこはいい人(笑)。
たけし 根っこは純朴ないい人かも。どうだ!(笑)。
玉袋 「浅草芸人」としての流れは汲んでるわけですよね。由利徹さん、渥美清さん、萩本欽一さんという。
たけし 「浅草芸人」っていうけど、偶然、その時代にそこにいた人たちを指すだけであって、「浅草の芸」なんてあるわけないんだから。本質的には全部、違う芸だよ。萩本さんも相変わらずやってたんだろうし、渥美さんは渥美さんなりの芸だと思うよ。 (浅草キッド著「濃厚民族」スコラマガジン)
ビートたけし氏にしても、萩本欽一氏にしても、「芸人」がテレビによって「タレント」というものに変質せざるを得ない点が興味深い。いわく、
高田 でも、司会の話を切り出したら、萩本さんが怒りだしたって聞きましたけど。
萩本 怒った、怒った。コメディアンに司会進行を頼むのは失礼だって怒ったの。
だって、司会やれなんて、お前はコメディアンとしての価値がないって言いに来たようなものじゃない。ちょうど僕はコント55号で頑張ってた頃だしさ。(高田文夫著「笑うふたり―語る名人、聞く達人 高田文夫対談集」中公文庫)
と言っていた萩本氏が、
極端な話、テレビに芸は要らない。芸はテレビで披露してはいけない。芸は舞台でやるものだという結論に達したの。
それで、ふっと気がついたら、僕はテレビで全く芸を見せなくなっていたんだよね。テレビで大人の芸をやったのは三回だけ。(高田文夫著「笑うふたり―語る名人、聞く達人 高田文夫対談集」中公文庫)
と考えを変えた。
萩本 その通り。テレビを見ている人は誰も僕のことを芸人だって思ってないわけだもん。
初めて園遊会というものに招かれたとき、僕のことは「芸人」じゃなくて「タレント」って書いてあったの。ああ、これが世間の認識なんだと、そのとき思ったわけ。(高田文夫著「笑うふたり―語る名人、聞く達人 高田文夫対談集」中公文庫)
と言ったり、ビートたけし氏が
たけし バブルの時だったから、芸人もバブル、社会もバブルだったから、テレビ局の予算もあったし、だからそれに対応できる番組がある程度出来たけど、今、それが一切ないじゃん。そしたら、演出家も作家もやりようがないよ。だからワイドショーのコメンテーターとかでみんな出てるじゃない。(浅草キッド著「濃厚民族」スコラマガジン)
芸人は芸人として登場することができず、タレントとして出ざるを得なくなった。そして、テレビはネタを見せる番組が減っていった。30分じっくり見せるより、1分で笑わせたり、コメンテーターとして気の利いた発言ができる人間が重宝とされる時代となった。
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「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の謎(「新春TV放談2013」後半部分補足情報・4)

テリー伊藤ビートたけしの関係の謎

大根仁 毎回、たけしさんとの勝負だったという話を聞いたことがあるんですが。
テリー やっぱり、たけしさんは、あの当時、日本で一番シビアなバラエティーを見る人でも、ある訳じゃないですか。
(中略)
千原 これ、企画、バ〜ッと考えますよね。考えて、たけしさんのところに、持っていくんですか?
テリー うん。
千原 それで、たけしさんが、ノーの場合もあるんですか。
テリー ありますね。でも、たけしさんも、分かんない事はあるんですよ。
千原 やってみないとね。
テリー たけしさんは、正直言って、例えば「勇気を出して初めての告白」とか、あんまり、たけしさん自身はいい青春送っていないと思ってるの。例えば、ミッション系の学校に行ってる訳じゃないし、若い頃に浅草のストリップ劇場にいた訳じゃない。だから、意外とそういう爽やかなものに対して、結構、抵抗感があった。
千原 なるほど。
テリー 例えば「ねるとん」なんかやってたのは、「元気」で一回やったんですよ。そうすると、たけしさんは、「何だよ、あんな若い奴が出てイチャイチャして」って言うんだよ。でも、これ、絶対面白いよな。だったら、もう、とんねるずでやろうと思う訳ですよ。
千原 へえ〜。
テリー だから、そういうのは、ありますね。 (抜き書き「新春TV放談2013」後半部分(2) )
そこで、ビートたけし側の証言を探した。みつけたのが、浅草キッドとの対談集「濃厚民族」(スコラマガジン)
水道橋博士(以下博士) テリー伊藤さんとの出会いは。
ビートたけし(以下たけし) テリー伊藤を認識したのは『元気が出るテレビ』からだな。
博士 その前は覚えてないですか。かなりのインパクトある顔ですけど。
たけし 「あっち向いてホイ」「逆方向からキューを出す男」とか言ってたけど、毎週木曜日『オールナイトニッポン』をやる前に2時間位に打ち合わせを2人でしていた。若手の作家に書かせたネタを持ってきて、俺が見てこれはこうしたほうがいい、とかいってコーナーを作ってただけだよ。
玉袋筋太郎(以下玉袋) でもそれはテリーさんいわく戦争だと言ってましたよ。とにかく殿を喜ばすものを作ろうと、相当ピリピリしてたとか。
たけし ああ、あの時、そういえばピリピリしてたなぁ。俺は口悪いから「バカヤロー、辞めちまえ! お前、才能ねえよ」とか言ってたよ。
玉袋 殿の一言で企画がガラッと変わっても、次の日がロケ日だから大変だったらしいですよ。
たけし 「こんなネタやらせるなら、俺は降りるわ」って。
博士 よく言ってましたよね。「“爆苦連亡世”(ばっくれんなよ・的場浩司のデビュー作)なんてあんなもの認めねえよ。全然あんなの不良じゃねぇ、俺は1番嫌いなんだこんな奴ら。こいつをスターにするんだったら俺は辞めるよ」って。
たけし 作り物だからいいんだけどさ、下品だよ。
玉袋 殿もテリーさんも東京出身なんで東京人として共通する部分はあるんですか。仕事がやりやすいとか、関西の人とは違うとか。
たけし テリーさんは築地の玉子焼き屋のボンボンだからね。同じ下町でも山手だよ。俺らより数段柄がいいというか、金もあるし、オシャレだし。俺らは根っからの貧乏人だもん。
博士 演出家とタレントという関係だったのが、共演者になったりするのはどういう感じなんですか。たくさんそういう方を見てきたと思いますか。
たけし 芸能自体がね、ジャンジャンジャンジャン変わって、それは青島さんや巨泉さんがタレントだか作家だかわからなくて、そうやって上がっていくことは昔からあることだから、時代が変わって放送作家だけでは満足できない人たちが、もっと上を目指すじゃん。上を目指したところで、大した上がないから、タレントになっちゃったほうが早いじゃん。タレントは1番儲かるし、楽だもんな。そうなるのは当たり前で、高田文夫さんだってタレントじゃない。半分は作家だけど。それはしょうがないよ。
博士 テリーさんと殿が2人で飲みに行くってのは見たことないですね。馴れ合っていることを見たことありません。
たけし ないね。高田さんはいつも飲んでたけど。勝負だからね。ラジオは馴れ合いだけど、テレビになると馴れ合いじゃなくて「俺に面白いもの見せろ」というような勝負になるから付き合わなかった。
玉袋 殿がテリーさんと一緒に番組やって『お笑いウルトラクイズ』があって、その後、僕らがテリーさんと『浅草橋ヤング洋品店』で一緒に仕事をさせてもらって。繋がってるんですねぇ。不思議な感じがします。
たけし バブルの時だったから、芸人もバブル、社会もバブルだったから、テレビ局の予算もあったし、だからそれに対応できる番組がある程度出来たけど、今、それが一切ないじゃん。そしたら、演出家も作家もやりようがないよ。だからワイドショーのコメンテーターとかでみんな出てるじゃない。(浅草キッド著「濃厚民族」スコラマガジン)

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「萩本欽一」の謎(「新春TV放談2013」後半部分補足情報・3)

(1)素人いじりの謎

関根勤氏は、こう言う。
関根 素人いじったのも、欽ちゃんが初めてじゃないですか?
あの、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」って(手を振り上げる)あるじゃないですか。あれ、3つ言うと、素人って、分かんなくなるんですって。
「欽ちゃんのドンとやってみよう!」と言って下さい。これが1つ目ですよね。
「おとうさん、元気よくね」って、元気よく言わなきゃいけない。…で、本番の寸前に「右手、上げようか」って言うんですって。
そうするともう、「どんと欽ちゃん!」って…。それを使ってたんですよ。(抜き書き「新春TV放談2013」後半部分(2) )
素人いじりが面白いと感じたのはいつだったのだろうか。高田文夫氏との対談「笑うふたり」でこう発言する。
高田 萩本さんは70年代に入ってから『オールスター家族対抗歌合戦』の司会をなさいましたよね。実はあの番組は、僕がポロッと話したアイデアが元になってるんですよ。
萩本 ホント? 僕、あの番組で13年も食わせてもらったんだけど(笑)。
高田 あの頃はちょうど、てんやわんやさんが『家族対抗歌合戦』をやられてたじゃないですか。で、僕は塚田さん(放送作家の塚田茂)のところに弟子入りしたばかりで、先生と一緒に食事してるときに話したんですよ。「家族対抗歌合戦をタレントでやったら面白いと思うんですけど」って。そしたら「それだ!」って。
萩本 覚えてるよ。塚田先生がプロデューサーと一緒に僕のところに司会やってくれって頼みに来たこと。
高田 でも、司会の話を切り出したら、萩本さんが怒りだしたって聞きましたけど。
萩本 怒った、怒った。コメディアンに司会進行を頼むのは失礼だって怒ったの。
だって、司会やれなんて、お前はコメディアンとしての価値がないって言いに来たようなものじゃない。ちょうど僕はコント55号で頑張ってた頃だしさ。
高田 いまと違って、コメディアンが司会をやるっていう発想がなかった時代ですからね。
萩本 そうなの。だから、できないって言ったの。そしたら、目茶苦茶な司会でもいいから頼むって、朝まで口説かれてさ。
結局、嫌々ながら引き受けたんだけど、やったはいいけど、番組は案の定、目茶苦茶になっちゃってさ(笑)。
高田 でも、歌の紹介の途中でファンファーレが鳴り出したり、違う家族の名前を紹介したりとか、観ているほうは面白かったですけどね。
萩本 別に狙ったわけじゃないんだよ。だけど段取りなんて言葉とは無縁のところで、僕はそれまで生きてきたわけじゃない。だからとんちんかんになっちゃったりしたんだけど、それが逆に面白かったみたいね。
その『オールスター』が終わると、『スター誕生』のディレクターがすぐ僕のところに飛んで来て、あんな型破りの司会は初めてで面白いから、うちでも是非お願いしますって。また、朝まで口説かれて……。
高田 また、朝まで口説かれて(笑)。
萩本 結局引き受けちゃった(笑)。
高田 結構押しに弱いじゃないですか(笑)。
萩本 “イヤイヤ”言ってるけどさ、本音は声かけてもらえてうれしいんですよ(笑)。
高田 でも、そうやって“イヤイヤ”引き受けたから、萩本さんのあと、お笑いの人たちが次々司会をするようになりましたものね。
それまでは、司会というと専門の人がいて、その人たちの独壇場でしたけど、萩本さんのおかげで、門戸がコメディアンにも開かれましたからね。そういう意味でも、萩本さんの功績はかなり大きいと僕は思うんですよ。
それに、萩本さんもそれまではコント一辺倒だったのが、司会をやったのがきっかけでまた違うところで勝負できるようになったわけですよね。だから『オールスター』の司会は萩本さんにとっても一つの転機だったと思うんですけど。
萩本 そうなんだよ。考えてみれば、いまバラエティなんかで司会やってるの、コメディアンばっかりだもんな。
だけど、作り方という部分では『オールスター』は昔の浅草に似てたのね。スタッフは僕と出演する家族を本番まで会わせないし、打ち合わせもほとんどないの。
それまで、テレビの笑いというのは作る笑いだと思っていたの。さっき高田さんが話していたように、台本、演出、リハというように綿密に作り上げていくというね。
それが『オールスター』の場合は違ったの。作る笑いというよりも、作られていく笑いというかな、周りからジワジワとね。だって、計算外のところで笑いが起きるんだから、僕が何かをやるというのとはちょっと違うわけでしょ。
高田 雰囲気が笑いを生むっていうんですか、お笑いのプロの思いつかないところで笑いがドッと来るわけですよね。
萩本 うん。これが、お茶の間の笑いってもんなんだ、テレビの笑いなんだって教わったのは、だから『オールスター』が最初ですよ。……とすると、何だい、そこに仕向けたのは高田さんかい? こりゃまた、お礼を言わないと(笑)。
高田 そんな、滅相もないです(笑)。
萩本 ホント、感謝しなきゃ。僕は『オールスター』のおかげで素人の面白さを見つけるわけだからね。それで、何十年と食わしてもらったんだから、今度、菓子折り持ってお礼に行くよ(笑)。
高田 もう、そのお気持ちだけで十分です。
いま、素人の面白さを見つけたと言ってましたけど、何かきっかけとかあったんですか?
萩本 あるよ。番組に山形から来たおじいちゃんが出たことがあったの。地元の町内会で会長をやってる人だったんけど、マイク持つなり「本日は家族をお招きいただきましてありがとうございます」って挨拶を始めたの。それがおかしくてさ。
ほら、挨拶って、時とか場合によってものすごく笑えたりするじゃない。そしたらそのおじいちゃんが続けて「こうしてNHKに出られて、わたくし、生涯の幸せです」って言うのよ(笑)。
あの頃は僕だって、55号は低俗で下品だっていうんで出してもらえなかったから、NHK出たことなかったのにさ(笑)。
高田 生涯の幸せ、味わったことなかったのに(笑)。
萩本 そう。『オールスター』ってフジテレビなのに、おじいちゃんはテレビはNHKしかないと思ってたらしいのね。だからもう、NHK、NHKって連呼しちゃって、もう誰も止められない(笑)。
高田 それ、ちゃんと流れたんですか?
萩本 バッチリ(笑)
そのとき、ふと思ったの。僕が同じ台詞を言っても誰も笑わないだろうなって。そうすると、僕よりもおじいちゃんのほうがテレビのなかの笑いという意味では上なんだよね。
こりゃあ、素人の瞬発力的な笑いにはかなわないなと感じたわけ。
高田 なるほど、そこで閃いたわけですか。
萩本 ピカッと閃いたね。昔はよく、テレビで芸を見せろとか、もっと芸を磨かなければ駄目だとか言ったじゃない。僕は、それは違うとそのとき思ったの。
だって、例えばテレビで歌舞伎をやっても視聴率取れないわけでしょ。だけと『オールスター』は何の芸を披露しなくても数字が取れる。
なんだ、誰もテレビですばらしい芸を見ようと思ってないんだって気がついた。
極端な話、テレビに芸は要らない。芸はテレビで披露してはいけない。芸は舞台でやるものだという結論に達したの。
それで、ふっと気がついたら、僕はテレビで全く芸を見せなくなっていたんだよね。テレビで大人の芸をやったのは三回だけ。
高田 そこまで見きわめられるところがお見事ですよね。そこから、コント55号とは全く違う笑いをテレビで提供していくわけじゃないですか。
萩本 そうなんだけど、そんな偉そうなことを言いながら、何年も同じような事を続けているとこっちも飽きてくるわけ(笑)。素人の笑いにも慣れてきちゃうしね。
ちょうどそんなときに、高田さんの師匠の塚田先生に言われたんだ、「欽ちゃん、いつも最高に面白いものにしようとしていない?」って。まさにその通りだったの。それで行き詰まりを感じてたわけ。
でも、塚田先生が言うには、いつも面白いものを提供し続けると、見ているほうはそれよりももっと面白いものを次に望むというわけ。それをずっと続けていたら、面白い番組なんてこの世からなくなっちゃうと。
だから次に面白ければ、たまにつまらない日があってもいいんだって。それならテレビの視聴者も「今日はこの前よりも面白かった」って納得してくれるって言うの。
ああ、そうかって、その言葉で気持ちが楽になった。
つまらないがあるから、面白いがある。この言葉はテレビという業界を生き抜くうえで随分ためになったね。
高田 確かに、テレビは突き詰めていったら身体もアイデアももたないですよ。
萩本 その通り。テレビを見ている人は誰も僕のことを芸人だって思ってないわけだもん。
初めて園遊会というものに招かれたとき、僕のことは「芸人」じゃなくて「タレント」って書いてあったの。ああ、これが世間の認識なんだと、そのとき思ったわけ。(高田文夫著「笑うふたり―語る名人、聞く達人 高田文夫対談集」中公文庫)

(2)語尾変化の謎

関根 萩本さんが、最初、フジテレビで、「何で、今、調子いいのに、7〜9時のゴールデンタイムをやらせてもらえないんだ?」って言ったら、当時、「この7〜9時はバラエティーはダメです。スポンサーがつきません」と。歌番組かドラマかドキュメンタリーでなきゃダメだと。それで、萩本さんが悔しがって、「ふざけるな」と。「俺、バラエティー、7時からやる」って言って。そのために萩本さんは浅草で、突っ込んでる時って、浅草ってべらんめえなんですよ。「てめえ、この野郎!」とか、「何やってんだ!」って突っ込みだったんですけども、これだと、お年寄りと子どもが怖がるからっていうんで、それで「やめなよ〜」とか「○○だよ〜」って柔らかくしたんです、わざと。(抜き書き「新春TV放談2013」後半部分(2) )
お笑いがゴールデンタイムに進出できた理由にふさわしいエピソードだが、これを萩本氏本人の書いた本から探ってみた。「快話術」という本に「語尾を変えたら、テレビが変わった」という項目にこう書いてある。
この本では、日本語のしゃべり方についての話をするわけだから、まずはボクの言葉か、なんでこういうふうになったのかを話しちゃうよ。
ボクの話って、語尾に「よ」や「の」がよくつくじゃない。「ダメだよ〜」「そうなのよ〜」「バンザ〜イ、なしよ」「なんでそうなるの」って。
これは、ボクがテレビに出るようになったときに、自分なりに考えて、それまでとは意識的に変えて使った言葉なの。それまで、浅草の舞台に立ってたときは、「ダメだ!」「いい加減にしろ!」って、鋭い突っ込みを入れたのよ。
ボクが高校を卒業して、浅草の東洋劇場に入ったのは、昭和34年のこと。コント55号を結成したのが昭和41年。フジテレビで『お笑いヤマト魂』っていう初めてのレギュラー番組を持ったのが、それから2年後のことだったの。この頃って、身分や貧富や性の違いについての差別的な意識を1回転させて、笑いのネタにするのが一番ウケてた時代だったのね。だから、突っ込みも自然に厳しくなったわけ。「なにぬねの」が語尾にくるような緩い突っ込みじゃダメ。「……してね」じゃ、話がオチないもん。舞台ではダメだ!」「いい加減にしろ!」みたいな濁点や「らりるれろ」が語尾につく、スパッと切れるような突っ込みが必要だったの。
でも、テレビって、そういうわけにはいかないな、と思ったの。ストリップをやってる劇場とは違って、テレビは女の人も見てる。子どもだって見てる。「なにすんだ!」ってって、濁音で終わっちゃうとキツいから、「だ!」のあとに「よ〜」をつけることで、キツい言葉を緩和させようと思ったの。「なにすんだ(!)よ〜」なら、いいだろうって。
ボクがあんまり「の〜」とか「よ〜」とか言うから、当時の週刊誌に「萩本欽一はオカマだ」って書かれたこともあったけど、ボクは「の」や「よ」がテレビには必要だと思ったから、気にしないで、そのまましゃべり続けたのよ。
そしたら、テレビの世界が変わったんだよね。大きいスポンサーが、お笑い番組を買ってくれるようになったの。それまでは、お笑い番組のイメージって悪くてさ。商品に傷がつくかもしれないっていう理由で、スポンサーがつきにくかったのね。それが、突っ込みに「の」や「よ」をつけたことで、スポンサーが安心して番組を買ってくれるようになって、ゴールデンタイムでお笑い番組ができるようになったわけ。(萩本欽一著「快話術―誰とでも心が通う日本語のしゃべり方」飛鳥新社)
萩本氏は、「自分なりに考えて、それまでとは意識的に変えて使った言葉」とは言っているが、そのような思いをするには、きっかけが必要だったに違いない。男一人の発想では、観客の女性がどう考えてるまでを思い浮かばないからだ。その答えは、「欽ちゃんのダメをやって運をつかもう!!」の「コメディアンはもっと綺麗な服を着なさい!」という項目に書いてあった。
芸能界でスターになっていくプロセスって、本人にはあまり実感がない。気が付いたら、いつの間にかそう見られるようになっていたという感じでね。
コント55号の場合でいえば、そういうきっかけになったのは、フジテレビでやっていた「お昼のゴールデンショー」かな。最初はそうでもなかったんだけど、しばらくするとかなりな高視聴率を取るようになってね。そのときの金曜日の担当をやっていたのが常田久仁子さんという女性のプロデューサーでね。常田さんと一緒に仕事をしたのが、その後の55号にとっての一大転機だったな。
常田さんとは「お昼のゴールデンショー」の次に、「コント55号の世界は笑う!」を始めたんだけれど、テレビの世界で「欽ちゃん」のキャラクターを作ったのは、あの人だよね。
なにしろ、ほかのプロデューサーやディレクターさんたちとは言うことが違う。
「コメディアンはもっと綺麗な服を着なさい!」
最初に会ったときに、開口一番、常田さんはそう言ったんだ。口調は柔らかかったけれどね。
コントを演じているときの衣裳って、ダボダボのほうがやりやすい。あっちこっちに動き回ったりするからね。ところがあの人は、それじゃあダメって言う。
「あのね、アナタたちがいた浅草の舞台では、客席にいた男の人ばかりだったでしょうけれど、テレビは女の人も見てるのよ。女ってね、いくらコントが面白くても、格好が汚いんじゃ見てはくれないわよ」
そんなことは思ってもみなかった欽ちゃんたちは、思わず口をポカンと開けていたね。自分たちには、まったくない発想だった。
「アナタたちがやりやすいかやりにくいかじゃなくて、見ている人が気持ちが良くなるほうが大切なの。だから、綺麗にやりなさい。綺麗なお洋服を着なさい」ってね、まるで母親がさとすみたいに言うんだ。
常田さんにしてみれば、お笑いの連中は見た目が下品で汚いから、スポンサーが付かない。それではテレビ局の人間としては困るという事情もあったんだろうけれど、でもそれだけじゃなかったと思う。もっと何ていうか、身内の者が親身になって心配したり元気づけてくれたりするような、あったかい切実さがあるんだよね。
「それからね、スタジオに来たとき、おはようございますって、いつもそればかり言ってないで、もっと気を遣ったほうがいいわよ。今日の服よく似合ってますね、とか、あ、髪型が変わりましたねって。何かいい言葉を添えないと、女の人には好かれないわよ」
なんて、女性に対する挨拶の仕方から仕込まれたな。ホント、手取り足取りって感じだった。例えは合わないけど、それまでアンちゃん風な格好をしていたビートルズが、ブライアン・エブスタインにスーツを着せられて、ポピュラーになっていったみたいにね(うふっ)(萩本欽一著「NHK知るを楽しむ 人生の歩き方 萩本欽一 欽ちゃんのダメをやって運をつかもう !!」DHC文化事業部)

(3)「運」の謎

関根 ある時、萩本さんがどうも視聴率が上がらないと。「何か幸せになったやついないか?」と。何か、運が出てってると。
(一同-笑い)
関根 そしたら、「何か、ないか?」って言ったら、皇(すめらぎ)さん(欽どこプロデューサー)って人が「将来、結婚しようと思ったんで、マンションを買った」って言うんですよ。「それ、ダメだ」って言うんですよ。「分かった。欽ちゃん、俺、そのマンション、住まない」と。それで、証人を呼んで、川のとこ行って、その鍵を、バッと…。「俺は、住まない!」って言って。
千原 「どこまでやるの!」ですよね。
テリー いい時代だね。
関根 ただ、まあ、合い鍵はあるから。
(一同-笑い)
関根 そのマンションは、手放してないんですけども、一緒に暮らそうとした恋人は、失ったらしいですよ、やっぱり。それで、こっちに運が来たっていう、そういう、ちょっとね…、あのー、不思議なこと、言う方だったんで。(抜き書き「新春TV放談2013」後半部分(2) )
萩本氏は、誰かが幸せになると、そこに運がとられてしまうと考えている。例えば、欽どこの妻役に女優の真屋順子採用の時、
僕は55号でもう運を使っちゃってるから、番組に、運のない人を入れたの。
欽どこ』のお母さん役の真屋順子さんがそうだったね。お母さん役の女優を決める時、本人には会ってないです。ディレクターの一杉(ひとすぎ)さんにいろんな劇団やプロダクションからブロマイド集めてきてもらって、「この人はどういう人?」って一人ひとり聞いてて、真屋さんの写真になった時、一杉さんが「この人ね、『大奥』とかでお姫様いじめてるの」って言うから、「いじめてるの? でもこの顔、いじめてる顔じゃないでしょ」って言ったの。「もしこの人がいじめる役やってるとしたら、きっと何かの生活の都合とかでやってると思うよ。だってこの人にしてみれば、それって口惜しい、悲しいと思うもの。この人に今、のどかないい奥さんやって下さいって言ったら、この人、幸せだと思うよ。その幸せだって気持ちがキラキラするんじゃない? 決定しましょうよ」って。一杉さんが「でも、一回会ったほうがいいんじゃない?」って言うから、「会わなくたって、今までが辛かったんだもん、この人。もう幸せだらけになるよ、これからは。決定、決定」って僕言いましたね。
僕、選ぶ時、演技力なんか見たことないです。運で選びますから。だから不運とかって言うより、使ってない運を持ってきて、僕の番組で使ってもらうんです。だから順子さん、ウキウキして、本当にニコニコして、いい空気いっぱい作ってくれましたよねえ。(萩本欽一著/斎藤明美取材・構成「まだ運はあるか」大和書房)
この萩本氏の独特の運の発想について、欽ちゃんの決断というタイトルで書いたことがある。そこで引用した言葉、

 野球は最近ダメだ、元気がないって言われてます。でも、ダメだって思った段階で、もうダメでしかなくなるんですよ。僕は「ダメなところにこそ、運がたまっている」と思います。ダメなものはダメって、大人がすぐ壁を作っちゃうような世の中じゃ、子供たちも夢を持ちようがないでしょ ? 子供は大人に夢を求めていますよ。 ( 「知るを楽しむ・人生の歩き方」06年6月7月号/日本放送出版協会 )

踊る大捜査線」の脚本家で、萩本氏のパジャマ党に所属している君塚良一氏は、この萩本氏の運の考え方に対してこんなことを書いている。

「三つの運は同時に来ない」
はじめに耳にした言葉がこれだ。
大将が出演するすべての番組が高視聴率を取っていたころで、視聴率が高いということは番組内で流れるCM効果が高くなり、スポンサーもテレビ局も喜んでくれる。作り手の対象も自由に仕事ができるし、高視聴率というのはテレビに係るすべての人々を幸福にする。

ある番組の若いディレクターが、大将に照れながら告白した。
「今度、結婚することになりました!」
聞いた対象は喜ぶどころか、目を落とすと言葉を失ったように黙り、しばらく考え込んでしまった。ディレクターの困惑した横顔。
大将が困ったような顔をして、苦しげに呟く。
「……そうか……来週、少し視聴率が落ちるけどしょうがない。ここが踏ん張りどころだな……」
妙なことを口にしたのだ。
弟子になったばかりのわたしには何を言っているのか意味がわからなかった。結婚することは幸せなことだし、結婚すればこのディレクターはますます頑張るだろう。しかし、大将は予言のように「視聴率が落ちる」と言った。それどころか、こんな提案までしたのだ。
「このディレクターを少し休ませてはどうだ?」
ふつうに耳にすると、人の幸せをひがんでいる、妬んでいるとしか聞こえない。プロデューサーは、「あいつは頑張ってるから、替えるわけにはいきません」と提案を受け入れず、ディレクターは仕事を続けることになった。

しかし、大将の言葉は正しかった。
本当に視聴率が下がり始めたのだ。ディレクターはこれまで通りの仕事をしていたにもかかわらず。
「何で視聴率が落ちたと思う?」
大将がわたしに問いかけた。
「……はあ……」
わかるわけがない。
「編集がユルくなった」
じつはそのディレクター、いままでは編集が完成しても何度も何度も見直し、まわりの人間がもういいよと言うまでやり続けていた。
「彼は最近、どうだ?」
大将がスタッフを見回す。
「……まあ、たしかにいつもよりは早く帰りますね」
「そうだろ? いままでは一人で暮らしてたから、帰ってもすることがない。それで朝まで何度も編集を重ねてきたんだ。でもいまは、帰れば愛する奥さんが待ってる。だから、どうしても早く帰るようになってしまう。人間っていうのはしょうがないけど、奥さんができたときや恋人ができたとき、ましてや子どもが生まれたときって、早く家に帰りたくなるもんだ……」
大将の厳しげな顔はディレクターを責めているそれではない。人というもの全般に対して考察する心理学者のそれだった。
つまりディレクターはサボったわけではないが、いままでなら、もう一回と朝まで粘って見直していたものを、結婚したことで無意識に早く切り上げて帰るようになっていたのだ。
このちょっとしたことが視聴率に跳ね返ってくる。大将はそう感じ取っていた。


ほかにもあった。浮気をして家庭が崩壊寸前になっているプロデューサーが手掛ける番組の視聴率が良い。子どもや親が病気になったスタッフが参加している番組がヒットする。ところが、とても健康で爽やかなプロデューサーなのに番組はまったく当たらない。
大将の論理に当てはめると、どれも納得。いろいろなものが見えてくるようになった。
常々、大将はこう言っていた。
「神様は、ぼくたちに平等に運を与えてくれる」
創作の世界でもビジネスの世界であっても、人間が成功する・しないは運に左右される。
大将の言う三つの運とは、「仕事」「健康」「家庭(恋人)」。
神様は一人の人間に、この三つの運を同時に与えない。どれかを与えたときは、ほかの運を消してしまう。三つすべてが同時に来ることはない。三つすべてに幸福は訪れない。世の中、幸福だけに包まれた人はいないし、不幸のみの人もいない。人生は厳しく平等なのだ。(君塚良一著「踊る大捜査線」あの名台詞が書けたわけ/朝日新書)


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「8時だョ!全員集合」の謎(「新春TV放談2013」後半部分補足情報・2)

(1)視聴率50.5%の謎

抜き書き「新春TV放談2013」後半部分(1) で、上田早苗アナが最高視聴率が50.5%であることが発表されたが、その最高視聴率をたたき出した番組が何だったかを僕はすでに調べている。それは、欽ちゃんの笑いから全員集合の笑いへ(NHK「そのとき、みんなテレビを見ていた」第二部より)(3) のエントリーである。
この50.5%の番組は何かと思って調べてみた。Wikipediaによれば、

平均視聴率27.3%、最高視聴率は1973年4月7日放送の50.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区にての数値)。最盛期には40〜50%の視聴率を稼ぎ「お化け番組」「怪物番組」と呼ばれ、土曜8時戦争と呼ばれる視聴率競争にあっても絶対王者として君臨する存在であった。(8時だョ!全員集合-Wikipedia)

とあり、1973年4月7日の番組は、

(第158回:1973年4月7日) 前半コント「嵐を呼ぶリング」
・ゲスト:水前寺清子「昭和放浪記」/欧陽菲菲「恋の十字路」/三善英史「少年記」
・特別ゲスト:輪島功一
・演出:東 修
・会場:文京公会堂(東京)
◆番組最高視聴率50.5%を記録。この回よりアシスタントがゴールデン・ハーフからキャンディーズに交替。
◆ボクシングジムを舞台とした前半コントの特別ゲストに、当時WBCスーパーウェルター級の世界チャンオンであった輪島功一が特別出演。(Ryu's Diary 〜MUSIC・TV・LANDSCAPE〜)

(2)1時間番組に5日かけたの謎

テリー 週1の1時間番組じゃないですか。5日かけてましたからね。
千原 5日かかってるんですか。へえ〜。
秋元康 火曜日に「全員集合」会議だったんですよ。「ザ・ベストテン」も火曜日に会議だったんですよ。終わるのがお互い、朝の4時くらいですよ。
6時からですよ。夕方の18時から会議始まって終わるの朝4時なんですよ。ず〜っと会議やるか、「全員集合」はリハーサルもやってましたけど。だからやっぱり、それぐらい気合いですよね。(抜き書き「新春TV放談2013」後半部分(1) )
本番は、毎週土曜日の生放送である。火曜から土曜まで5日間もドリフターズを独占するとしたらすごい事だと調べてみた。当時プロデューサーの居作昌果氏によると、
「8時だョ!全員集合」の制作にあたって、私はドリフターズのスケジュールを、木曜、金曜、土曜と週に丸三日押さえていた。土曜日は生放送の日だから当然として、木金の二日間を拘束したのは、たっぷり時間をかけて、番組の中身を作り上げていきたかったからである。スタジオからスタジオへと、笑いのタレントたちが時間に追われるように駆け巡っていたこの時代に、一つの番組で丸三日のスケジュールを確保するのは、全く特異なやり方だった。土曜日のゴールデン・アワーの一時間、それも生放送の舞台を作ろうというのだから、ドリフターズも所属の渡辺プロダクションも、それなりのスケジュールを渡してくれたのだ。その木金の二日間を、前半のコントの徹底的な練り上げに、ほとんどを費やしたのだ。
木曜日は、その翌週のコントの内容を作り上げ、美術デザイナーにコント・セットの作製を依頼し、また必要な小道具から作り物の道具類を、美術に発注する。

(中略)

この木曜日の“ネタ作り”は、午後三時から深夜にまで及ぶ。担当ディレクターと担当の作家が、台本は用意してくる。だがそれに肉をつけていくためには、まずその台本を、ばらばらにしていく作業から入る。時には、用意された台本そのものが、却下されてしまうこともある。いかりやと作家の、なぜ面白くないかの議論が始まると、弁当を食い出す者や、畳を引っ張り出して寝転がったりしている者がいる。やがて作家が、プイと部屋を出て行ってしまったりする。

(中略)

小休止とギャグ作りの繰り返しで、リハーサル室は、深夜となる。ギャグがふくらみ、コントの大筋が見えるまで終わらない。いや、終われないのだ。来週何をやるのか。生放送である。この木曜日に決定しなければ、コント・セットの製作が間に合わない。このネタ作り、ギャグ作りの産みの苦しみが、「全員集合」の面白さの“根っこ”だったのである。

放送前日の金曜日、前週の木曜日に、“一応”まとまったコントの台本を前に、リハーサルが始まる。始まるとはいっても、その台本に、とりあえず目を通すだけである。コント・セットの絵図面を見ながら、ギャグのひとつひとつを台本から拾い上げて、考えていくのだ。

(中略)

いかりやを中心に、作家たちとメンバーのまたまたギャグ作りが始まる。リハーサルが始まるわけではない。リハーサル室のテーブルを囲んで、延々と沈黙の時間が過ぎていく。やがて、弁当を食ったり、そば屋から出前を取ってみたり、床に畳を敷いて寝転がってみたりと気分転換をしながら、新しいギャグをひねり出すまで、動かない。この新しいネタ作りに時間をかけるだけかけて、「それじゃあ、立ってみます」とのディレクターの声で立ち稽古が始まるまでには、七、八時間が過ぎている。これでやっとリハーサルの始まりとなる。ドリフターズが動き始めて、やっと笑い声がリハーサル室に広がる。加藤の動きに、志村のセリフに、いかりやのやりとりに、リハーサル室の空気がなごむ。前週の木曜日のネタ作りからこの日の立ち稽古が始まるまで、二十時間近い、笑い声の聞こえない難産の時が過ぎている。

(中略)

「8時だョ!全員集合」放送前日の金曜のリハーサルは、前半のコントの立ち稽古に始まり、この後、体操コーナーとか合唱隊とか他の部分のネタの確認を済ませて、深夜零時頃に、なんとか「オツカレサマ!」となる。

(中略)

朝九時に会場に到着したドリフターズが、まず最初にやることは、コント・セットの点検である。いかりやが、セット全体をチェックしている。各自が、それぞれのギャグの仕掛けのテストをする。ギャグに使う衣裳類から小道具類を確認する。特別に発注した特殊なものばかりだから、出来上がってきたものを手にしてみなければ、使えるかどうかわからない。気に入らなければ、細かい注文をつけて、美術に直しに入ってもらう。セットと道具類のチェックが終わって、衣裳を着け、持ち道具を持って、コント・セットを使ってのリハーサルに入る。頭の中で考えてきたことが、ここでやっと具体化されてくるわけだ。だが、実際に道具を使い、セットの中で動いてみると、どうにも面白くないところが出て来る。またまた試行錯誤の始まりとなる。舞台に座り込んだり客席に座ったりと、新しいアイデアがまとまるまで、リハーサルは止まってしまう。しかし、生放送の当日である。

(中略)

やがて数々の小直しが入って、オープニングからエンディングまでの、ランスルー・リハーサルに入る。このランスルー・リハーサルが全部できたのは、番組がスタートして半年間ぐらいだっただろうか。当日の内容変更やギャグの作り直し、セットの直しなどと、直しにつぐ直しに時間をとられ、ランスルーをやる間もなく客入れの時間が来てしまうのだ。中継をするカメラや技術関係者にとっては、たまったものではない。常識的には、ランスルーのないテレビ番組など考えられない。ぶっつけ本番状態で、一時間の生放送をすることになるのだ。だが中継クルーも、文句は言わない。「全員集合」に、「常識」はないのである。結果としてコントが受ける、満員の観客が笑い転げてくれる。これが最優先であることを、スタッフ全員が納得しているのだった。(居作昌果著「8時だョ!全員集合伝説」双葉社)

木曜から土曜までの流れを居作昌果氏の著書「8時だョ!全員集合伝説」から省略しながら追ってみた。しかし、ここから分かったのは、ネタをまとめコントに練り上げる会議が木曜日だという事だ。秋元氏の火曜の会議というのがあてはまらない。そこで関係者の著書をあたってみた。いかりや長介氏が書いた「だめだこりゃ」によると、
「全員集合」の作り方について少し。
水曜と木曜にディレクターと作家さんと私の三人でやる3ロビ会議というのがあった(のちに木曜だけになった。人間、一度楽を覚えると元に戻らないもので、再び水曜日の会議が復活することはなかった)。

まず水曜日に翌週の土曜日にやるコントをおおざっぱに決める(主として冒頭の22分コントを固める)。項目に分けて明日までに考えてきてもらったり、調査をお願いする。例えば、舞台でパトカーを走らせられるか、業者に調べてもらったりするわけだ。

木曜日にはメンバー、スタッフも集まり、調査の結果を聞き、動きやギャグを相談し、煮詰め、練っていく。この日に一番時間をかける。午後三時に始めて、一、二時間で終わることもあれば終わるのが深夜を過ぎることもあった。しばらく沈黙が続いたり、雑談したり、煮詰まるとメンバーはやがて隣の部屋に移り、ありとあらゆる暇つぶしを考案しては遊んだ。将棋・ポーカーは言うに及ばず、上半身裸の新井のお腹に十円玉を投げてくっけるゲームまでした。ここでコントの設定を決定し、必要なセットを発注しておかないと、来週の土曜の本番までに装置が間に合わない。この会議のおかげて、「いかりやは作家の台本をまるで採用しない」「ディレクターを信用しない」「全部一人でやりたがる独裁者」「鬼だ、蛇だ」「金をかすめとってんじゃねえか?」という風評が立った。何をかいわんや、である。私はいつでもネタに追われていた。追いまくられていた。ゼエゼエいっていた。フーフーいっていた。ネタを書き、舞台にのせるまでつくりあげる作業を他人にやってもらえるなら、こんなに楽なことはない。

だが、作家の書いてくる本、ディレクターのつける演出は、それぞれよく考えられてはいたが、やはり「頭で」考えられたものにすぎない場合が多く、そのまま客の前にかけられるものではなかった。だからどうしても、一度分解し、再構築する作業が必要になったのだ。(いかりや長介著「だめだこりゃ」新潮文庫)

木曜の午後3時という点では、居作昌果氏の証言と共通している。しかも、新たに分かったのは、その後なくなってしまったが水曜にも会議があったことだ。だが、秋元氏の言う火曜の午後6時ではない。たとえ、勘違いであっても、秋元氏がついていたザ・ベストテンの初回は1978年であり、「8時だョ!全員集合」は1969年に始まりすでに9年は立っている。どうしても、折り合えないなら、ここで考え方を変える必要がある。ドリフターズやプロデューサーが出席しない会議が火曜日に開かれた可能性である。そのヒントは、それぞれの資料に書かれている。
担当ディレクターと担当の作家が、台本は用意してくる。(居作昌果著「8時だョ!全員集合伝説」双葉社)

だが、作家の書いてくる本、ディレクターのつける演出は、それぞれよく考えられてはいたが、やはり「頭で」考えられたものにすぎない場合が多く、そのまま客の前にかけられるものではなかった。だからどうしても、一度分解し、再構築する作業が必要になったのだ。(いかりや長介著「だめだこりゃ」新潮文庫)

つまり、木曜の会議に用意される台本の中身を作るための会議が、担当ディレクターと作家によって火曜に開かれたという可能性である。それならば、毎週火曜の6時であってもかまわない。
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「クジラ対シャチ」の謎(「新春TV放談2013」後半部分補足情報・1)

最近、抜き書きシリーズには、補足情報をつけてエントリーすることにしている。例えば、ドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのか(1) には、ドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのか(2)をつけ、出来るだけ資料を集めて後追い調査した。また、抜き書き「探検バクモン 愛と欲望のマンガ道」のときも、「愛と欲望のマンガ道」補足情報として4回にわたって後追い調査した。今回も、出来るだけ資料を集めて出演者の発言に関しての補足情報を数回にわたってエントリーする。

なぜ、後半部分を書き起こしたのか

前項まで3回にわたって「新春TV放談2013」の書き起こしをした。ただ、前半を書き起こさなかった理由がある。前半は、2012年のドラマとバラエティーのランキングが中心に構成されていた。それらは出場したゲストが番組スタッフではないために、どうしても個人的な感想にならざるを得ない。僕は、このブログを事実中心で書きたいと思っている。だから、後半の当事者が関わる証言こそが貴重だと思ったのである。それでも、今回のタイトルの「クジラ対シャチ」については、前半の発言から説明しなければならないだろう。それは「番外編 パネラーが選ぶ2012年テレビ番組No.1」というコーナーだった。

鈴木おさむ それでいったら、あれですよ。NHKで去年、すごかったのは、「クジラ対シャチ」ですよ。
小島慶子 あ〜見た!
鈴木 半端なかったですよ。あれ、ヤバイですよ。
千原ジュニア あれね、旅先やったんですよね。「これ、絶対おもろい」思って。
鈴木 めちゃくちゃ面白かったんですよ。
上田早苗アナ 何ですか。見てない。
鈴木 クジラが親子で旅するんですよ。

(字幕)NHKスペシャル 大海原の決闘!クジラ対シャチ(2012年11月25日放送)
鈴木 旅してるとこに、シャチが悪い奴で3匹で追いかけてくるんですよ。そして、親と子を分断するんですよ。分断して、親は狙えないから子供のクジラにシャチが2匹でつけるんですよ。逃げられないように。どうするかというと、クジラって2分ぐらいしか息が持たないんです。上に乗っかって、窒息死させるんですよ。
僕、うわさに聞いたんですけど、NHKがそのシリーズで「クジラ対ダイオウイカ」っていうのを撮ってるってうわさがある。
小島 私も聞いたことがある。
千原 めっちゃ、おもろいですやん、それ。
鈴木 「ホント?」って、それうわさで聞いたんですよ。

以上が、「クジラ対シャチ」に関する部分である。なお、リンクはつけないが、映像は検索すれは見ることができよう。それよりも、1月7日にNHKが世界初のダイオウイカ撮影に成功したというニュースが飛び込んできた。(世界初・ダイオウイカの深海映像撮影に成功)
しかも1月13日には、NHKスペシャル「世界初撮影! 深海の超巨大イカ」というタイトルで放送するという。

10年の歳月をかけ地道に調査・準備を進めた末、ついに奇跡を呼び起こす。人類が初めて遭遇したその姿は、黄金にまばゆいばかりに輝いていた!潜航回数100回、潜航時間400時間に及ぶ空前の海洋科学アドベンチャー番組。(「世界初撮影! 深海の超巨大イカ」)
というのだから、着々と「クジラ対ダイオウイカ」にむかって進行中ということなのだろう。

前半のランキング一覧

ここで省略したランキングを並べてみる。このランキングは2000人の視聴者調査によるものだという。

2012年人気ドラマランキング
1位 梅ちゃん先生(NHK)
2位 相棒(テレビ朝日系)
3位 平清盛(NHK)
4位 リーガル・ハイ(フジテレビ系)
5位 純と愛(NHK)
6位 ATARU(TBS系)
7位 最後から二番目の恋(フジテレビ系)
8位 PRICELESS〜あるわけねえだろ、んなもん!〜(フジテレビ系)
9位 鍵のかかった部屋(フジテレビ系)
10位 つるかめ助産院〜南の島から〜(NHK)


2012年人気バラエティーランキング
1位 アメトーーク!(テレビ朝日系)
2位 ホンマでっか!?TV(フジテレビ系)
3位 世界の果てまでイッテQ(日本テレビ系)
4位 マツコ&有吉の怒り新党(テレビ朝日系)
5位 しゃべくり007(日本テレビ系)
6位 ロンドンハーツ(テレビ朝日系)
7位 もしものシミュレーションバラエティーお試しかっ!(テレビ朝日系)
8位 鶴瓶の家族に乾杯 (NHK)
9位 めちゃ×2イケてるッ!(フジテレビ系)
10位 ほこ×たて (フジテレビ系)

次に60年のドラマランキング。これは1000人の視聴者に「これまで見た番組の中で最も印象的なものは何か」という調査。(なおバラエティーランキングは抜き書き「新春TV放談2013」後半部分(1) に載せている)
テレビ60年人気ドラマランキング
1位 相棒(初回放送2002年 テレビ朝日系)
2位 篤姫(初回放送2008年 NHK)
3位 おしん(初回放送1983年 NHK)
4位 東京ラブストーリー(初回放送1991年 フジテレビ系)
4位 坂の上の雲(初回放送2009年 NHK)
4位 梅ちゃん先生(初回放送2012年 NHK)
7位 北の国から(初回放送1981年 フジテレビ系)
8位 3年B組金八先生(初回放送1979年 TBS系)
9位 踊る大捜査線(初回放送1997年 フジテレビ系)
9位 ロングバケーション(初回放送1996年 フジテレビ系)
11位 カーネーション(初回放送2011年 NHK)
12位 家政婦のミタ(初回放送2011年 日本テレビ系)
13位 JIN-仁-(初回放送2009年 TBS系)
14位 独眼竜政宗(初回放送1987年 NHK)
15位 渡る世間は鬼ばかり(初回放送1990年 TBS系)
16位 101回目のプロポーズ(初回放送1991年 フジテレビ系)
16位 白い巨塔(初回放送?1967年NET系?1978年フジテレビ系?2003年フジテレビ系)
18位 平清盛(初回放送2012年 NHK)
18位 おはなはん(初回放送1966年 NHK)
20位 SPEC(初回放送2010年 TBS系)

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抜き書き「新春TV放談2013」後半部分(3)

今後ヒット番組を作るには?

千原 さあ、これまで、60年間のテレビを振り返ってきましたが、これからの時代、ヒット番組を作るには、どうすればいいのかという事で、非常に難しいですけどもね。
秋元 さっきから、皆さんのお話を伺っていても、一番は、好きなものを作った人が勝ちですよね。
さっきの「クジラ対シャチ」じゃないんだけど、そのための苦労を苦労と思わないと思うんですよ。それを撮っている間、興奮して。多分、テリーさんが、「元気」を作っていた時も、欽ちゃんがいろんなものを作っていた時も、そこで「あのころ大変で、つらかったな」というのは、ないんですよ。興奮してるんですよ。
テリー 夢中でしたよ。
秋元 面白いんですよ。だからその熱が、コンプライアンスとか組織的な事とかで、今のテレビに携わる人たちが、そういう環境にないのは、ちょっとかわいそうかなと。
テリー 僕はやっぱり、フランケンシュタインを作りたい。あとは、例えば、バラエティーで…、3か月間ずっと温泉掘ってるとかね。そういうのも、面白いかなんて。
鈴木 夢って、大事ですよね。
テリー 結構、世の中って、大変じゃないですか。今、生きていくのって。生活も…、収入も減っていくから。僕、個人的には、テレビで、ずっと、楽しい人生を歩んできてるから、そういう楽しい思いを見ている方に、これからもずっと届けていきたいというのは、ありますね。
千原 おさむさん、どうですか?
鈴木 個人的には、やんちゃな番組が増えてほしいなと。
今週は7%だけど、次の週は、15%みたいな番組とかの感じが、逆に、みんな、視聴率が落ちただなんて、言われているから、ちょっと冒険しやすい時代に少しなってきたのかなって。
普通、今までだったら、企画書が通らないようなものを、「まあ、いいか、やってみるか」みたいな感じの空気が、テレビ局にあるなって。
テリー 特に、今、フジテレビさ。そんなに調子よくないじゃない。逆に、フジテレビなんかは、ねらいどころですよね。いい番組が、どんどん出来るんじゃないですか。
千原 最後は、こちらです。

2013年テレビ ここに注目!

千原 2013年テレビ ここに注目!
上田アナ 最後は、「2013年テレビ ここに注目!」というポイントを、皆さんに書いて頂きました。それではまずは、秋元さんから。
秋元 僕はですね…「大失敗」ですね。
千原 …といいますと?
秋元 悲しい事に、例えば、僕ら、打合せしていても、「なんとか、2桁いきましょう」と。いつから、2桁を目標にするようになっちゃったのかなと思うんです。やっぱり、それは、失敗できないという状況があるんですね。だから「いや、いや。これはダメでいいんだ」と。もう大失敗して、みんなが大笑いするね。だから、もしかしたら、テリーさんのフランケンシュタインが、すごいいい試みで、数字的には大失敗だったけど、きっと何かが変わるんですよね。それを今、本当に、みんな、失敗、嫌がりますからね。なので、僕は、大失敗こそ、すごく大事だと思います。
上田アナ 続いては、テリー伊藤さん、お願いします。
テリー これです!「出てこい!! 宇宙人」そろそろ出てきてほしいです。
千原 何年、言うてるんですかね。
テリー 矢追さんが、頑張ってるんですけどね。もう、そろそろ、いいだろうと!
小島 見たい! だいぶ待った。
千原 30〜40年、言うてますよ。
テリー 50年は出てこないんですよ。なんとしても、出てこい、宇宙人!
(一同-笑い)
上田アナ 続いては、関根さんです。
関根 「新星」。やっぱり結局ね。にぎわしてくれるんですよ。2012年は、スギちゃんでしょ。
千原 去年のこれをやっている頃は、まだ、スギちゃんは、誰も知りませんでしたからね。
秋元 関根さんのお薦めは、今、誰なんですか?
関根 え〜っと、きそうなのは、ウエストランドとイワイガワですね。
(一同-笑い)
千原 イワイガワさんも長いですよ。もう、ベテランじゃないですか。
関根 はまったら、いけますよ。
(一同-笑い)
上田アナ 続いて、小島さん、お願いします。
小島 「あなたに見せたいんだ!」2012年に、私、NHKのテレビカメラ持った人が、エベレストの頂上まで登って、ぐるり360度見せてくれた番組を見て、とってもとってもうれしかったんですね。「あなたに、これ、見せたかったんだよね」というふうな気持ちが見ていて、もらえるような番組が見たいなと。
上田アナ 続いては、大根さん、お願いします。
大根 「ジャンルレスミクスチャー」バラエティーとも言えない、ドキュメンタリーともいえない。ドラマともいえないような、どこにも属さないような番組がやってみたいなというか、どこにも属さないような番組がやってみたいなというか、そういうのが増えていってほしいなと思っています。
上田アナ そして、鈴木さん、お願いします。
鈴木 こちらです。「スターの素」。僕、そろそろ、ディレクターで、スターが出てくるんじゃないかなと。やっぱり、テリーさんをはじめ、ディレクターのスターが出てこないと、なかなかホームラン番組ができないんですけど、今、チャレンジできる時代だからこそ、ディレクターのスターの卵がそろそろ現れて、彼らがテレビを、また変えるんじゃないかなと、思っておりますというか、願っています。
上田アナ 最後は、ジュニアさんにお願いします。
千原 僕は、これしかないと思いますね。そんな話、聞いたら…。「クジラVS ダイオウイカ
(一同-笑い)
上田アナ 今年は、せいじさんじゃないんだ。
千原 絶対、見たいですもん。これです。絶対です。
上田アナ それでは「新春TV放談2013」お別れの時間となりました。
千原 また来年、お会いしましょう。よいお年を!
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抜き書き「新春TV放談2013」後半部分(2)

大ヒット番組はこうして生まれた!

千原 大ヒット番組はこうして生まれた!
(拍手)
NA まず最初は、第8位にランクされた萩本欽一さん。代表作「欽ちゃんのどこまでやるの!」で共演した関根勤さんに話を聞きます。
関根 私は一応ね、3年ぐらい前に、「弟子という事で、いいですか?」と言ったら、「いいよ」と言ってくれたの。
千原 師匠が番組を作られてるのは、ずっと見てはった訳ですよね。
関根 僕、リハーサルから、ずっとやってました。
千原 どういう作り方なんですか? 萩本さんは。
関根 すべてにおいて全責任者です。それで「欽どこ」の場合は、欽ちゃんのどこまでやるのですよね。台本が出来がよくないと思ったんでしょうね。萩本さん、気に入らないんですよね。「これ、捨てて。今から、作るから」って言って、マフラー、こんな風にやりながら、「う〜ん…見栄晴、出てきて。見栄晴、ここ」って、口づてで全部作っちゃうんですよ。
千原 それ、完成するんですか?
関根 完成して、面白いんですよ。
上田アナ その「欽どこ」…
(字幕) 欽ちゃんのどこまでやるの!(1976年〜1986年 テレビ朝日系)
最高視聴率42%を記録。萩本欽一真屋順子のもとを毎回いろんなゲストが訪れるホームコメディー
上田アナ 最高視聴率42%を取っているんですね。萩本欽一さんと真屋順子さんのホームコメディーの映像、ご用意できました。
関根 すごいな。NHKさん、流しちゃうの? すごいね。60年だからね。
<VTR「欽ちゃんのどこまでやるの!」(1983年6月22日放送)>
千原 さあ、関根さん。緊張してはるんですか。
関根 これ、緊張してますね。かなり、前半の方ですね。ものすごいプレッシャー、かかってましたね。
素人いじったのも、欽ちゃんが初めてじゃないですか?
あの、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」って(手を振り上げる)あるじゃないですか。あれ、3つ言うと、素人って、分かんなくなるんですって。
「欽ちゃんのドンとやってみよう!」と言って下さい。これが1つ目ですよね。
「おとうさん、元気よくね」って、元気よく言わなきゃいけない。…で、本番の寸前に「右手、上げようか」って言うんですって。
そうするともう、「どんと欽ちゃん!」って…。それを使ってたんですよ。
秋元 わざと? テンパらして?
関根 わざと。そうです。
上田アナ 萩本さんって、浅草でコント55号って大人気だった訳じゃないですか。テレビのゴールデンで、何としてもバラエティーをという思いはすごく…。
関根 あったみたいですよ。
上田アナ 悔しかったんですか?
関根 悔しかったんですって。「どうして、お笑いがドラマとかに負けるんだ」「人気あるのに、何でスポンサーつかないんだ」って。
これ、萩本さんに聞いて、ホントかどうかというのは…。まあ、ホントだと思うんですけども、萩本さんが、最初、フジテレビで、「何で、今、調子いいのに、7〜9時のゴールデンタイムをやらせてもらえないんだ?」って言ったら、当時、「この7〜9時はバラエティーはダメです。スポンサーがつきません」と。歌番組かドラマかドキュメンタリーでなきゃダメだと。それで、萩本さんが悔しがって、「ふざけるな」と。「俺、バラエティー、7時からやる」って言って。そのために萩本さんは浅草で、突っ込んでる時って、浅草ってべらんめえなんですよ。「てめえ、この野郎!」とか、「何やってんだ!」って突っ込みだったんですけども、これだと、お年寄りと子どもが怖がるからっていうんで、それで「やめなよ〜」とか「○○だよ〜」って柔らかくしたんです、わざと。
上田アナ 欽ちゃんの、今、しゃべってらっしゃる言葉は、わざと。
関根 そうなんです。ゴールデンやるスポンサーがOKするために。そうやって、ゴールデンに進出したのが、萩本さんなんです。
上田アナ スポンサーサイドとか、徐々に変わっていった感じですか?
関根 多分、「欽ドン」だと思うんですけども、そこでいったら、一気ですよね。「欽どこ」「週刊欽曜日」、全部、バラエティーになっちゃいました。ただ、プロデューサーたちは、大変だったみたいですよ。
ある時、萩本さんがどうも視聴率が上がらないと。「何か幸せになったやついないか?」と。何か、運が出てってると。
(一同-笑い)
関根 そしたら、「何か、ないか?」って言ったら、皇(すめらぎ)さん(欽どこプロデューサー)って人が「将来、結婚しようと思ったんで、マンションを買った」って言うんですよ。「それ、ダメだ」って言うんですよ。「分かった。欽ちゃん、俺、そのマンション、住まない」と。それで、証人を呼んで、川のとこ行って、その鍵を、バッと…。「俺は、住まない!」って言って。
千原 「どこまでやるの!」ですよね。
テリー いい時代だね。
関根 ただ、まあ、合い鍵はあるから。
(一同-笑い)
関根 そのマンションは、手放してないんですけども、一緒に暮らそうとした恋人は、失ったらしいですよ、やっぱり。それで、こっちに運が来たっていう、そういう、ちょっとね…、あのー、不思議なこと、言う方だったんで。
(一同-笑い)

NA 続いては、15位にランクされたテリー伊藤さん。代表作「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の話を聞きます。

(字幕)<代表作>「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」「ねるとん紅鯨団
千原 テリーさんは、どんな感じで「元気」は?
(字幕)天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(1985年〜1996年 日本テレビ系)
日曜よる8時の放送 名も無い一般の人々にスポットをあて、様々な人気者を生み出したドキュメントバラエティー

テリー 僕は、初めての仕事、「オレたちひょうきん族」が、やってたじゃないですか、バラエティーとして。僕は、日曜の夜8時を頼まれて、「コントはもう勝てないな」って。「ひょうきん族」の、たけしさんのああいうの、勝てないなと思って。じゃあ、何をやろうかなというんで「元気」みたいの、考えたんですよ。
千原 むちゃくちゃ やったんですよ、テリーさん、あのころは。
関根 すごかったですよね「元気が出るテレビ!!」は。
鈴木 僕、小6だったんですよ。まず、見方が分かんなかったんです。「元気が出るテレビ!!」って。
『商店街を盛り上げよう!』今となっては、バラエティーの定番ですけれど、「商店街を盛り上げるってどういう事?」っていうのとか、いきなり『半漁人が現れる!』ってやつあったじゃないですか。「どういう事?」って。1個はリアルなのに、『半漁人が現れる!』とか、10分ごとにやってる事が違うんで見方が分からなかったんですが、だんだん時間かけて、僕らも見方が分かってくる面白さが、こういう事なんだというのが、もう、たまんなかったですよね。「元気が出るテレビ!!」の前に、テレビ東京でずっとやってたんです。
鈴木 ああいう事をですか? 
テリー むちゃくちゃな事を。それこそ、ライオンを虎にしたり、スプレーで塗って。
小島慶子 ひどい…。
テリー 多分、また、カットされちゃうんですね、こうやって、しゃべってると。
僕、人と接するのが、好きでね。特に、素人の人と。そういう人なんかと、番組をやりたいなって。自分の演出能力だけで、やってると限りがあると思ったんですよ。柔道の投げ技みたいに、その人の力を利用して、遠くへ飛ばそうというのが、どっかにあったのかもわかんないですね。
千原 そんな「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」。すごい映像を手に入れました。NHKで、まさか、この番組を見れる日が来るとは…。
<VTR「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」早朝バズーカ(1987年10月18日放送)>
テリー やってますね〜。
小島 ひどい…ひどい。
テリー ひどいなあ。コンプライアンスないですね。
(一同-笑い)
千原 あれ、何年前ですか?
テリー これは…「元気」始めて…。そうですね。もう、30年ぐらい前ですかね。「早朝バズーカ」っていうんですけど。
大根仁 毎回、たけしさんとの勝負だったという話を聞いたことがあるんですが。
テリー やっぱり、たけしさんは、あの当時、日本で一番シビアなバラエティーを見る人でも、ある訳じゃないですか。だから、これ考えたのは、ある日、家、帰る時に、電車で夕刊紙読んでて、「早朝ソープ」って書いてあったんですよ。「早朝ソープが、今、はやってる」って。うわ〜すごいなっていって。早朝ソープ…そうか、朝からソープランドかっていって、本来は、一番、爽やかな朝に、ソープランドって面白いなと思って、じゃあ「早朝」にミスマッチで合うもの何かなと思ってたら…、じゃバズーカだと。
(一同-笑い)
千原 そればっかり、ずっと考えてはるんでしょ?「ダンス甲子園」もいろいろ何とか甲子園ないかって、最終的にテリーさん、「『野球甲子園』どうや!」って言うたらしい。
(一同-笑い)
千原 普通じゃん。
上田アナ それ通常。
関根 でも、ボクシングで世界チャンピオン出しましたからね。
千原 だって、放送作家さんもね。
上田アナ こちら。いろんな企画が、めじろ押し。
おかま競歩 ダンス甲子園 100人隊が行く 失恋傷心バスツアー 平成口ゲンカ王決定戦 放送作家予備校 勇気を出して初めての告白 なりきりポエム集会 幸福の黄色いハンカチ どっきり!すべり台雪見風呂
上田アナ 懐かしい?
小島 懐かしいですね。
関根 「口ゲンカ王」くだらなかったな〜。
秋元 僕、ほとんど、テリーさんと放送作家としては、やってないんですけど、1回だけ、あるんですよ。番組を。その時に、テリーさんが毎回、会議に来る度に、「くだらない事、やろうよ」これが口癖だったんですよ。で、くだらない事っていうのが、つまり、バラエティーの中で、ここに宝があるんだっていうのを、見つけたのは、テリーさんだと思う。それまでは「シャボン玉ホリデー」でも、それまでは、例えば「ゲバゲバ」でも、あるいは「全員集合」でも、「ひょうきん族」でも、みんなやっぱり、何かくだらなくないものを作ろうとしてるんですよね。でも、テリーさんのは、気付く事なんだよね。なるほど、それ、面白いなっていう。
千原 あれは、どんな感じだったんですか? 「おかま競歩」。
(一同-笑い)
テリー 面白いですから。内股で歩くの。
関根 そうですね。
テリー 例えば、今日なんかもね。来年…っていうか今年、どんなバラエティーがいいかなと思ってると、スケベな犬とか探したいじゃないですか。
(一同-笑い)
千原 いるでしょうね。犬の中でも、性欲強い犬と、弱い犬はいますから。
テリー やっぱり、スケベな犬が、いい女の人の匂いを嗅ぎに行くところだとか。そういうのは、面白いでしょ? だから、突然、面白い犬は、いないかなとか。いるんですよ、探せば。
鈴木 でも、テリーさんって、くだらない事もありますけど、僕「元気」って見てて、例えば「黄色いハンカチ」とか、「告白」とか泣きとか胸キュンもあったじゃないですか。この振り幅は何だったんですか? 
テリー これはね、あの、年配の方にも見てもらいたいというのが、すごくあって、バラエティーって、独りよがりでも、ないじゃないですか。やっぱり、ゴールデン…、「元気が出るテレビ!!」っていうのは、次の日、会社に行くとか、学校行く時に、「あれ、面白かったな」って日曜の夜、「あ〜、よかった。くだらなくて。今日は寝ようか。明日から、また1週間頑張ろう」というような事の提案でもあるんですよ。だから「黄色いハンカチ」にしろ「勇気を出して」も、俺が青春の時、あんな事やったよなっていうような事を、感じ取ってもらえばいいなというふうに。
千原 これ、企画、バ〜ッと考えますよね。考えて、たけしさんのところに、持っていくんですか?
テリー うん。
千原 それで、たけしさんが、ノーの場合もあるんですか。
テリー ありますね。でも、たけしさんも、分かんない事はあるんですよ。
千原 やってみないとね。
テリー たけしさんは、正直言って、例えば「勇気を出して初めての告白」とか、
(字幕)勇気を出して初めての告白
好きな人に告白したい視聴者がタレントの応援を得て勇気を出して告白するコーナー
テリー あんまり、たけしさん自身はいい青春送っていないと思ってるの。例えば、ミッション系の学校に行ってる訳じゃないし、若い頃に浅草のストリップ劇場にいた訳じゃない。だから、意外とそういう爽やかなものに対して、結構、抵抗感があった。
千原 なるほど。
テリー 例えば「ねるとん」なんかやってたのは、
(字幕)ねるとん紅鯨団(1987年〜1994年 フジテレビ系)
司会 とんねるず 素人参加型の集団お見合いバラエティー
テリー 「元気」で一回やったんですよ。そうすると、たけしさんは、「何だよ、あんな若い奴が出てイチャイチャして」って言うんだよ。でも、これ、絶対面白いよな。だったら、もう、とんねるずでやろうと思う訳ですよ。
千原 へえ〜。
テリー だから、そういうのは、ありますね。

NA 次は、16位にランクされた秋元康さん。放送作家として参加した.「ザ・ベストテン」の話を聞きます。

(字幕)<代表作>「ザ・ベストテン」「夕やけニャンニャン」「とんねるずのみなさんのおかげでした
千原 さあ、秋元さん。「ザ・ベストテン」の放送作家をされてたそうですが。
(字幕)ザ・ベストテン(1987年〜1994年 TBS系)
黒柳徹子 久米宏が司会。
毎週独自のランキングをカウントダウン形式で発表し、歌手が生放送で曲を披露する音楽番組。
上田アナ 先ほどもお話に出ましたけれども、こんな感じでしたよね。(写真フリップ)
関根 見てたな、毎週。
秋元 でも、これは別に、僕が作った番組でもないですし、僕は放送作家として、一番若い放送作家として参加してたんですけど、面白かったですね。つまり、ここでヒット曲っていうのは、どうなんだろうとか、どうやってできるんだろうというのを、ここで学んだような気がするんですね。
上田アナ 毎週ヒット曲をランキングでカウントダウン形式で。
秋元 だから1回目の放送の時の会議が一番大変で、その週の一番売れている人たちが来る訳じゃないですか。テレビの常識からいうと、オープニング、全員いた方が、数字、いいんじゃないのっていうのが、あったんですよ。だから、先に全員紹介して、後からその人が何位かというふうにするか、やっぱり隠してるか、どっちかにしようというのが、どっちかにしようというのが、ずっと、あったんですよ。でも、結局隠してる方にしたんですけどね。
テリー 正解でしたね。
秋元 ねえ。
関根 ワクワクしますもんね。
秋元 だから、例えば、「誰々さん、お越し頂けません」っていうのを、言う歌番組なんかなかった訳ですから。
上田アナ 確かに、「お仕事で、今日は」とか。
関根 そうですね。
大根 「テレビに出たくない」っていう人もいましたもんね。
千原 あ〜。
上田アナ 中島みゆきさんとか。
秋元 そうですね。松山千春さんとか。
関根 「出演交渉したんですけども、出て頂く事がかないませんでした」ってはっきり言いましたもんね。
秋元 それが後に「夕やけニャンニャン」で、国生さゆりが「今日は、新田恵利ちゃんは、中間テストのため、お休みです」って。これもすごいなと思った。
(字幕) 夕やけニャンニャン」(1985年〜1987年 フジテレビ系)
平日の夕方5時の生放送バラエティー 男子中高生に人気を博した素人女子高生
アイドルグループ「おニャン子クラブ」はこの番組から誕生した。
秋元 なめてるのかと。テレビって、絶対的なもので、みんな出たいものだったじゃないですか。
テリー それはまた、新鮮ですよね。
秋元 新鮮でした。だからこの2つは、テレビですごいなと思ったんですよね。
上田アナ 「ザ・ベストテン」といえば…。全国どこからでも生中継。
秋元 これ、専門的に言うと、昔は、生放送、生中継とかだと。2段で飛ばしてたんですよ。これは、すごい大変な事なんだけども、見てらっしゃる方は、全然そんなこと…。ねえ。
昔は、電話回線も、ず〜っと、つないだりしてたんですけど、やっぱり、技術が、今のように進んじゃうと、こういう緊張感がなくなってくるんですよね。
上田アナ やっぱり、かなり緊張?
秋元 それはもう、だって、松田聖子さんが歌って、新幹線に乗って帰る訳だから。
上田アナ 時々、新幹線が発射しちゃったりする時も…。
秋元 ありました。
上田アナ え〜歌が途中なのにみたいな。
テリー そういうハプニングも、楽しんだんでしょうね。
秋元 そうですね。さっき、テリーさんがおっしゃったけど、気合がすごかったな。山本譲二さんが、「みちのくひとり旅」を生中継で歌う。その時にね、僕らはサブにいると、こっち側のモニターで、ナイアガラみたいな花火が、パ〜ッと落ちる仕掛けになってるんですよ。本番で「第何位 山本譲二」って言ったところに、もうナイアガラ、火付けちゃってる。そしたら、もう、サブから、「止めろ! 止めろ!」って言って、ADが素手ですよ、素手で…。
(一同) え〜!
千原 気合いですね。
秋元 気合い。ああいうのは、やっぱり、テレビなんですよね。
上田アナ え〜すごい。
関根 「ザ・ベストテン」って、当時、マネージャーが、アイドル同士、絶対、つきあっちゃいけないっていうから、話しかけられないんですよ。携帯電話もないし。ところが、あの裏のセットの所だけで、渡してたっていうのを、後で、聞きましたよね。
テリー い…いいですね。
関根 ところが、マネージャーいないじゃないですか。
小島 次の順位の人と、一瞬だけ、入れ替わる時に?
千原 あのころの、諸星君の話とか、聞いたら、すごいですよね。
ザ・ベストテン」最終回1位、光GENJIやったらしいんです。最終回1位やったら、あのドア、持って帰っていいって言われて、家、持って帰ったんですよ。諸星君。ホンマに「ザ・ベストテン」に出てくるアイドルの人たちを、ホンマの自宅の、あの回転扉から出してたっていう。
(一同-笑い)
テリー 今度、呼びましょうよ。
千原 あの人、ホンマに、すごいですよ。
「誰と、そういう一戦、交えてるんですか」って言ったら、「ジュニアさん、当時のアイドル、想像して下さい」。「はい」。「その人もです」って。
(一同-笑い)

NA 最後は、10位にランクされたSMAPの皆さん。代表作「SMAP×SMAP」を生み出した、鈴木おさむさんに話を聞きます。

(字幕)<代表作>「SMAP×SMAP」「笑っていいとも!」「いきなり!黄金伝説」「お試しかっ!」「ほこ×たて
上田アナ この「SMAP×SMAP」がアイドルのイメージを変えていったなという気が…。
(字幕)SMAP×SMAP」(初回放送 1996年 フジテレビ系)
人気アイドルグループ「SMAP」の冠バラエティー番組。
鈴木 いや〜もう、それは大きいと思います。その時まで…僕が、当時23歳でしたけど、16〜17年前ですよね。アイドルが、今でこそ、みんな、冠番組やってますけど。ゴールデンプライムで、アイドルがメインで番組をやって、そして視聴率を取っているという歴史がなかったんですよね。
それまで、SMAPは、テレ東で、よくジャニーズの人が歴代やってるじゃないですか。6時とか7時に。SMAPは、そこの直前までテレ東でそういう番組やってるんですよ。視聴率4%から5%。だからゴールデンにフジテレビでやったところで、取る訳がないと思っていた人がすごくいっぱいいますし、すごく言われました。
千原 また、コントをするっていうのがね。
鈴木 そうですね。ちょっと一個、そこが刺激もありましたけど。
上田アナ 今回、16年前に放送された「SMAP×SMAP」の第1回のお宝映像を入手致しました。すごく貴重な映像です。じっくりと、ご覧ください。
<VTR「SMAP×SMAP」第1回(1996年4月15日放送)>
鈴木 これ、ちなみにあれですね。「ロングバケーション」の1回目と同じ放送日だったんです。
(字幕) 「ロングバケーション」(1996年 フジテレビ系)
木村拓哉の連続ドラマ初主演作 瞬間最高視聴率43.8%“ロンバケ現象”なる社会現象を巻き起こした。
千原 へえ〜!
鈴木 だから「ロングバケーション」が終わって、もうすぐ10分後ぐらいには、木村拓哉君が…。
千原 コントしてるんですね。ネタ振り、めちゃくちゃ利いてるんですね。
テリー これ数字どうだったんですか?
鈴木 初回、20を超えたという。
上田アナ 初回で、もういきなり…。
千原 それは、ネタ振り利いてますわ。男前の恋愛やっといて、その直後にコントやるって。
鈴木 でも、すごかったですよ。本人たちの意気込みも。やっぱり、バラエティーをゴールデンでやるという事においてのなめられちゃいけないという気持ちが。
だから、その前に一個「いいとも!」に入ったじゃないですか。関根さんが、ずっと見てましたけど。
関根 ええ。
鈴木 当時って、光GENJIが大ブレークしたあとに、ジャニーズ冬の時代って、いわれていたんですね。だから、バラエティーで、ジャニーズの人が来ると、何だったら売り込まれるというか。「え〜? SMAPなんか要らないよ」っていう時代ありましたよね。
だから「いいとも!」に最初に中居君とか慎吾君が入った時も、何となくお客さんもそんなに、まだウエルカムじゃないというか…。
上田アナ 「何?」っていう。
鈴木 その中から、すごくバラエティーで頑張って、トンネル掘ってる感じとかはしましたけどね。
テリー 事務所偉かったよね。
鈴木 すごかったですね、確かに。
テリー 事務所が、いろんなところに売り込みに行ったというね。あれは、やっぱり偉かったな。
関根 たのきんにしても、光GENJIにしても、短命だったんですよね、アイドルの時代が。もう20代中盤ぐらいで終わるんですよ。
鈴木 解散してたんですね。
関根 ところが、SMAPからですね。もう30代の後半になっても、まだアイドルだという。
テリー 奇跡だよね。
関根 昔は、ありえないですよね。30代後半でアイドルってね。
テリー なかったですね。
上田アナ 「SMAP×SMAP」のネタ出しはSMAPのメンバーも、参加してるんですか。
鈴木 やってます。自分がちゃんと、アイドルとしてというか、「ここはできる」とか「ここはやれない」とか、そういう事をやりながら、すごい細かいですけどね。
千原 ホンマ気合い入ってるんですね。「BISTRO」でも、全部一回作りはるんでしょ?
(字幕) BISTRO SMAP
SMAPのメンバーが料理で対決するコーナー
鈴木 そうです。
千原 作って、自分らで食べて。もう一回、本番で作るってね。
鈴木 いまだに「BISTRO SMAP」で、「勝者 誰々」ってあるじゃないですか。木村君は、負けるとホント機嫌悪いですからね!
(一同-笑い)
上田アナ いまだに?
鈴木 そうですよ。だから、みんな、勝ちたいんですよ。特に、自分と関係性のあるゲストの人とか来て、負けることもあるじゃないですか。「何でだよ!」って。でも、だから、いいんでしょうけどね。
テリー 目が違うよね。
鈴木 そうですね。
上田アナ やっぱり、本気、根性とかって重要なんですね。テレビの中においては。
鈴木 そうですね。今は、アイドルが、いろんな事をやるの、当たり前ですけど。でも、そろそろ、アイドルで新しいの、出てくるかもしれないですね。
SMAPが今までに作った形の中での、いろいろパターンを変えてたので、もしかしたら、アイドルで、バラエティーやる人も、そろそろ、また何か、大きく変わってくるかもしれない。
テリー 女性がやるかも。
鈴木 確かに!
テリー 女性アイドルが、番組を。
千原 どうなんですか、秋元さん。
秋元 う〜ん、まあ、だから、SMAPの成功というのは、要するに、アイドルって、ファン向けに作っちゃうんですよね。ファンではない人たちに広がった時にブレークする訳ですけど、SMAPとかは、やっぱり、ファンではないじゃないですか。
あれを見ても、ファンじゃない人も楽しめるようになっている。ここがテーマですからね。
テリー そこだよな。
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